労働と家を考える | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

気ままに書くということをしようと思います。

また、なんていうか、じぶんが頭でっかちになっているなあとおもう。


たぶんそれは、他人からの評価ということを気にしすぎているからだと思うんですね。

なにやったってまあ批判はついてまわります。

つまり、批判と呼ぶに値しないような罵詈雑言ですね。

そういうものを過度に恐れている。

ええかっこしいだから、例えば、うまく書いたり発言したりできないわけです。

いまここでただちにやらないといけません、というふうに、もっと切迫すれば、人間はだれでもそこそこ出来てしまうところがあると思います。


とりあえずですね、たぶん、いま、すごくテーマとして気になっていること、考えたいことというのが、労働ということと家族、家制度というものです。

どちらもですね、まあ経済というものに結びついていくものであるように思います。


経済は英語ではエコノミックですが、これは古代ギリシアのオイコノミコス、家政から来ている。

家政はぼくはよくわかってないんですけど、家の政治と書きますね。

家事のことや、ギリシアの場合は奴隷労働の管理監督技術のことも含んでいたと思います。


額に汗する労働は、ギリシアのエートスにおいては「卑しい」こととされていました。

必要不可欠な労働は隷属的で不自由であるとされたからです。

奴隷は不自由であり天下国家のことを論ずる特権である市民権をもちませんでした。

奴隷制度をよしとするわけではないですけど、今日の労働中心主義は歪であると思います。


家も難しいです。

家は再生産を目的とするものである、のかな。

わかりませんが、少なくともそれが喪失、消滅に対する恐怖から始まっていることは確かであると思います。

蓄財と私有ということがあるのではないか。

あとは家父長ですね。

トーテムとタブーではないですけど、原父、厳父ということを考えたい。


家は、対幻想と共同幻想の結び目にあります。

祖先霊崇拝の慣習をもてば、共同幻想の契機となるだろうし、(異性愛であるかはともかくも)そもそも性関係がなくてはなりません。


で、ぼくは労働や家制度ということに悩むわけですけど、これらは煎じ詰めれば結局、承認欲求によるものです。

就活に成功してスキルアップ、キャリアアップして、財貨、地位、威信を手に入れて、モテたい。

認められたい、生きていてもよいのだという安心を得たい。

そういうつまんないことを考えるから、労働や家という問題が前景化するわけです。

「民族誌的奇習」ですね。

時代的限界。


低収入だけど少ししか働かず毎日平日昼間から遊んで暮らす生き方 - @fromdusktildawnの雑記帳

http://ulog.cc/a/fromdusktildawn/18871


これ読んでせやなーと思ったんですけども、いまは近代のおしまいのところ、新しい時代がすぐそこの角のところまで来ている。

そっちのほうに歩いていきたいなと思います。