質問|Revolution of Species
http://ameblo.jp/reiner-alice/entry-11292134750.html
ハクロ君から質問を受けたので答える。
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大学生というのはある種の特権階級である。
大学というところは、その外部社会とは、ルールというか、エートスというか、ものさしというか、そういったものが逆向きになっている。
一般社会では、秩序の安定、再生産ということがよいとされている。
大学では、既存の尺度でははかれない新しいものの創出が目指されている。
疑う、という意識の働きがなくてはならない。
そのとき、自己充足ということが否定される。
大学生は、考える義務を負っている。
ソクラテスが無知の知、ということをいったのは、そういうことではないかとおもう。
最終的な知にすでに到達しているならば、もはや考える必要はない。
そういう十全性、完結性、全体性ということに到達したまさにそのとき、それはニセモノの表象に転化する。
いま、原子力の是非ということが、問題ではない、と考えている人はどれくらいいるのだろうか。
そんなことは考えるに値しない瑣末な問題に過ぎない?
そうではないだろう。
私たちは、原発について、何がしかの事を考えるべきである。
原発問題こそは、久しくなかった、国論を二分するような、まさに考えるべき問題である。
原発問題の最大の特徴は、その影響が時間的に、空間的に、あまりにもあまねく及ぶことである。
これについて、考えることを放棄し、発言を拒否する者は、「大学生」ではない。
いま、原発ぬきでその思考の体系を組み上げている人間は、無力である。
原発について考えない学生こそ、論ずるに値しないのである。
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まず、完全な認識を得なければ判断できないというのはナンセンスではないだろうか。
カントの「物自体」を引くまでもなく、認識は経験に追いつかない。
判断ということはつねに、「決死の跳躍」であると考えている。
01)電気が足りないから原発が再稼働するわけですが、節電によって間違いなく生じる比較的少数の健康被害と稼働中に起こるかわからない災害によって生じる多数の健康被害については、双方ともどのように結論を出しているのでしょうか?
原発を稼働させないためには、熱中症で亡くなる老人が犠牲になることもやむを得ないと言っているのでしょうか?
めんどくさい(しちゃんと調べていないので)細かいところは省くが、電力不足はさほど問題ではないと考えている。
電力不足の顕在とは「停電」だけであり、節電して何とかやっていける場合、それは不足とはいわない。
節電で健康被害が出る場合(極端な場合死ぬこともあるだろう)はどうなるのか。
健康被害が出るほど電気の使用を我慢することは「節電」とはいわない。
節電?により、例えば熱中症にかかって老人が亡くなった場合、それは節電によって殺されたのではなく、熱中症で死んだのである。
電力の使用を制限せずとも(原発を稼動せず「節電」を呼びかける場合も制限を強制するものではないことに注意したいが)、熱中症で死ぬ老人は一定度いるだろう。
さきに(3.11以前から呼びかけられていた)「節電」によって、非「節電」時と比較してどれだけ多くの健康被害が出たのかを立証する責任があるだろう。
ちなみにぼくは、「節電」前後では大差ないだろうと直感している。
さらにいえば、電力の不足ということもはなはだ疑問である。
電力会社によるデータはまるで信用できないこと。
節電、省エネ、自然エネルギー推進、揚水発電、電力の自由化をすべてやれば相当程度埋められるはずである。
「稼働中に起こるかわからない災害によって生じる多数の健康被害」
フクシマが起きてしまった以上、「起きるリスクはほとんど無視できます」とはいえない。
以上から、これはトロリー問題ではない。
02)原発の近くに住んでいる人たちは、意外にも反原発運動に対して冷ややかであるといいます。(中略)
そうなると、原発反対派の人たちは、一体誰の健康・安全を保障しようとしているのでしょう?(略)
原発から少し離れた人たち(自分たち含む)の健康を保護しようとしているのか、それとも、現地の人たちの意向に反していることは知りながらあえて彼らの健康を気遣っているのか、現地の人たちの意向に反しているとマスコミは言うけれども、そうは言ったって現地にも反原発の人はいるんだぞと言いたいのか
自分の健康・安全、(被曝より失業を恐れて)搾取される被曝労働者、自然環境、未来の他者である。
被曝労働者については自分で調べてもらいたいけれども、平時においても原発での労働は被曝を伴っている。
被曝労働者達は、たしかに、被曝よりも失業を恐れている。
だが、もし、彼らがもっと安定して高収入な職を持っていた場合(彼らが私たち「一般市民」である場合)、あえてすすんで被曝労働を選ぶか?
つまり、君は原発での労働を選ぶか?
ぼくは嫌だ。
だから当事者たちが反対せずとも勝手におせっかいに反対する。
自然環境汚染の問題がある。
フクシマを見れば明白な通り、原発事故がおきれば、周辺の莫大な環境が破壊されることになる。
現在の技術では回復できないことについて、どうやったら責任が取れるのか。
結果の責任が取れないことについて、やる自由は認められないのではないか?
原発の影響は空間的なものにとどまらない。
時間というファクターが抜けている。
環境汚染だけでなく、原発を動かすと必ず発生する高レベル放射性廃棄物は処理までに数万年かかるといわれている。
未来の他者に対しての責任を考慮に入れるべきである。
03)ところで、そんな原発近隣住民に関して、何よりも疑問なのが、原発をなくすことによって彼らの雇用を奪うことになるという問題です。
被曝労働者の解放はリンカーンの奴隷解放と類比的である。
あとは、福祉の問題だろう。
04)最後に、反原発の人たちが、反原発を標榜する根拠に自分たちに直接関わる問題はないのでしょうか?
それこそ「反原発の人たち」というわけのわからない主語が成立しない場面だと思うが…。
個人的には、放射能を浴びたくない、環境を破壊して欲しくない、原発産業のおやじどもが気に食わない、被曝労働なんかまっぴらごめんだ、あと最後、原子力を放棄することが格好いいと思うからだ。
これだけみっともないことになってしまったときに、それでも最後の「矜持」を示す可能性が残されているとすればそれは、自ら過ちをみとめて、改めること以外ではない。
以上です。