投企的存在 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

時間が単線的にすすむものであるというのは、むしろ局所的な事態なのだ。

ぼくは、ああ、大学に入学したころに戻りたいなあという奴はつまらないと思う。


「きっとお前はは十年後に、せめて十年でいいから
戻ってやり直したいと思っているのだろう。
今やり直せよ。未来を。
十年後か、二十年後か、五十年後から戻ってきたんだよ、今。」


このコピペを思い出す。


ぼくは、浪人をしてから大学に入学した頃、ある種の時間的な倒錯の感覚をもっていた。

最初から有責なんだという感覚をもっていた。

私は、未来の他者としての私自身にたいして、そうでもありえたかもしれない過去の他者としての私自身にたいして、有責である。

汝自らを愛するように隣人を愛せよ。

これから死んでしまったことになっているだろうその者は、私だ。


だから、それに抗ってふるまうことが倫理であると信じた。

それが、コンサマトリーが禁じ手である理由、目的の奴隷(主体化=隷属化)である理由だ。


ぼくは、新入生の時分に、すでに、ああ、あなたはきっと、大学生活なんてあっという間であっただろうと思われているんでしょうね、と、OBの先輩に対して、思いました。

そういう奴にだけはならないようにしないといけないと思った。

そこが出口であるということは、何もしていないということに等しいから。


ある限定された時間が、まさに有限であるということが、入り口に置かれなければならない。

逆向きに置かれないといけない。


しかし、なぜだろう。


過ぎ去ったときは、しゃくだけど、今よりまぶしい。


欲望が満たされないものであるからではないか。

全体性ではなく、無限へと突き出るためではないだろうか。

逆向きに置かれるということは、進むことが、再帰であることではないだろうか。

無限とは、反省のことではないだろうか。


いまだかつて、わたしがあなたを愛していることは一度も現在化したことがありません。

純粋な愛は破綻している。

関係とは、交換によって成立するものであって、贈与によっては成立しないから。

純粋な贈与は、ない。

捉え返されたまさにそのとき、それは交換に転回するからだ。