可能性の原野 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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首相官邸前、原発再稼動反対デモに参加してきた。


現場を見ないで思想を語るなとおもったからだ。

吉本の、己の拳を通して表現できる思想以外を語るな、ということをおもったからだ。


デモはほとんどお初だったので(卒業おめでとうデモやピクニック闘争を含めなければ)、

まず、デモについてちょっと考えたところを書いておこうと思った。

ぜんぜんまとまってないけど。


デモってのは人が集まることなのだと思った。

柄谷さんはデモは動く集会だ、としていたけれど、納得した。


みんなまじめにシュプレヒコールを上げていたのは真面目だなーと驚いた。


うまくいえないんだけど、まずお祭りみたいな熱気とうねりはある。

で、人酔いする。

群衆ってのはそれがもうものすごい力を持っていて、引っ張られるところがある。


必ずしも統制されていないというか、もちろん主催側の誘導には従うわけなんだけれど、集まるは集まるけど頭の中はぜんぜんべつなんだぞ、というような感覚を得た。


stilllll, デモについて 國分功一郎

http://stilllll.tumblr.com/post/21439231962


月曜の民主主義プレゼンで次のような話をした。


民主主義というのは市民が政策を自己決定することをいう。

けれども、民主主義はたいへんなコストがかかる。

集まる場所の問題、意思決定までの時間の問題。

そのコストを軽減する工夫として、方便として、「代表」、間接民主主義があらわれてきた。

だから選挙即民主主義という見方は完全に誤りである。


議会政治は民主主義の半分でしかない。

より民主主義が根源的に現れるのが院外政治である。

院外政治であり直接行動のない、議会だけの政治は民主主義ではない。


けれども、そうはいうものの、議会が否定されるものではない。

政策決定の現場はあくまで議会であるからだ。

だから、院外の主張が、政策決定の現場たる議会に届けられる必要があるわけだ。


それは、個人の考えから、行動をとって拡大し、世論の支持をとりつけ、議会に届く、という過程をもつ。

そういう、私と公をつなぐ回路、歯車、媒体、中間共同性が必要だ、ということは、昨年秋口のぼくの直観と対応している。


ちなみに中間共同体がいま、少ないのはネオリベによって根扱ぎにされたからである。


デモは、私と公を繋ぐ重要な回路のひとつであるということになる。


柄谷さんか、中沢さんか、忘れたんだけど、デモは定住以前の遊牧的生活の回帰なんだ、ということを話していた。

そんな感じがね、するよ。


デモはうねりなんだよ、わーわーっていうさ。

たんに集まっているということで、逮捕とか主張とかあるけどさ、そういうのはやっぱり副次的なことなんだと思う。

あったりまえの表現であり、生活のうちがわにあるとおもう。

というか、私たちは二重のテントのように、生活というのを非日常のあちらがわから閉ざされている限界線だけではなくて、そのさらに内側に小さくこちらがわから線引きをしてちじこまって生きている。

生活ははしっこのほうがもやもやっと立ち消えていて、本来そのさきには非日常の、可能性の原野がどこまでも広がっているものであるはずなのだけれど、かちかちっと閉ざされたものであるように、わたしたちはみなしてきたし、あつかってきた。


でもね、整えられた意味の王国の果てるところに、世界はつながっているのだよ。


いま、ただのひとのうねりは、可能性の原野への道を閉ざしていたヴェールを、食い破ってしまった。


一時的なものではあれ、僕の目の前に、歩行者天国(他にたぶん呼び方があるが)が自然発生した。

意味の王国から解放された、可能性の原野が出来した。


いま、世界は、まさにそのようにあるとはべつのしかたでありうるだろう。