ぼくは先週の木曜日、夜の9時くらいに戸山公園の入り口あたりで絶望に駆られてぎゃーぎゃー喚いていたわけなんだけれど、あれがなんであったのかということについて書きたい。
ぼくは「思い出し怒り」をしていたんだよ。
何を思い出して怒っていたのかというと、その前に受けていた午後の講義の様子を思い出して怒っていた。
講義が始まる前の休み時間に友人に八つ当たりをしていたんだけど、それは自分を取り巻く状況に絶望してのことだった。
自分でも怒りの矛先というものがよく見えなくてそのことにもまた同時に怒っていた。
今でもよくわからないんだけど、とりあえずそのときあの子に話したことを録しておこう。
◇
なぜ、こんなつまんない講義を受けなくちゃいけないんだ。
いや、受けるべきじゃないんだ。
こんなもの受けるんじゃなくてさっさと帰るべきなんだけど、そのことができないぼくが悪いんだ。
この講義についていえば、やっぱりたかが知れている。
べつに構造主義なんてわかるわけだよ。
ロシア・フォルマリスムも、作者の死も、テクスト論も、そんなの当たり前にみんな知っているだろうし、知っているべきなんじゃないかと思うし、知らない人も文学のぶの字あたりで出くわすことになるんだからほっといても近いうちに知ることになるんだよ。
講義における知識の詰め込みなんてこれはまったくくだらない。
選書をして読んでおいてください、で済む話であると思う。
少なくとも、バカ高い学費とまったく見合わない。
…いや、ということは、こんなことをわざわざ怒るぼくもバカなんだ。
ぼくは怒っている自分に怒っているみたいだ。
怒ったってなんにもならないのに怒っている。
おかしいというならおかしい状況を改めることができるようなふるまいをとるべきなんであって、有効なことができていない時点でぼくはもうまったくだめだということだ。
この周りの…バカ学生たちとまったく変わらない。
なぜこんなつまらない講義を聴かなくちゃならないかというとそれは単位が欲しいからだ。
なぜ単位が欲しいかというと単位がないと卒業できないからであり、大学が単位を人質につまらない授業をきかせようとするのは社会から卒業生の品質保証を要求されているからだ。
大学が社会にへいこら言って要求をのまされるのがおかしい。
つまんない講義をいくら聞かせたって卒業生の有能性とはなんの関係もない。
おそろしくくだらないんだよ。
◇
で、ちょっと捕捉しておくと、大学には三つの機能がある。
知識の保存、伝達、創出。
ほかにもあるかもしれないけど、とりあえず三つしか指摘できない。
あとは大学の課程の分類としては、教養課程と専門課程とに分けることができる。
後者が知識をめぐる場であるとすると、前者は知性をめぐる場である。
知性とは物事を位置づける力のことであるとおもう。
自分が何を知っていて何を知らないか、どこに行けばまだ知らないそれを知ることができるかを判断する力のことだ。
知識を身につけていく外側の力のことだ。
ぼくはとにかく、知性を磨きたい。
読書する習慣なら浪人生のときに身につけたから。
大学は就職予備校でも職業訓練所でもありません。
同時にそういう機能をも引き受けることはあってもいいかもしれないけれども、あくまで副次的なものにすぎません。
超絶くだらない。
で、結局怒りの矛先がわからない。
絶望の正体がわからない。
たぶん、学生たちが当たり前に続いていく「日常」を不問の前提として内面化していることを怒り、また絶望していたんじゃないか。
大学は本来、知の創出の場だ。
新しいものの生まれてくることが許されているところだ。
そこでは誤る自由が認められている。
新しいものはよいものであるかもしれないし、悪いものであるかもしれない。
その是非を問わず、新しいものが生まれてくることを許されているところであること。
誤りうる勇気の場であること。
それをぼくは信じている。
けれども、「日常」は、その対極にある。
彼らは天地がひっくり返るような新しい認識の余地を引き受ける懐をもっていない。
彼らは臆断の虜囚である。
巨大怪獣が現れたり、建物が爆破されたり、少女が天から降ってきたり手足が勝手に踊りだして止まらなくなったり、権謀術数の結果総長が全裸のまま追放されたり、真夏にコタツで鍋を食っていたりすることを認められないのだ。
けれどもぼくは知的アクティビティの活性を担保する場というのは「そういうところ」であると考えている。
ぼくは少なくともどちらがより愉快であるか判断できる程度にはみなさんの感性が腐りきっていないことを信じたいのである。