意味はそのつど、ある視点を内在している
私たちには暗がりにある物が何であるかはよくわかりません。
物事とはなんであるか、本質を「見定める」にはそれが明らかでなければなりません。
物事は私たちの眼に明白に映じている限りで何がしかのものであります。
私たちは物事の性質をそのつど何かしらの価値規範、価値軸、物指しに従って判断します。
認識はつねに中立的で純粋なものではなく、それをどういうふうに解釈するかという偏りをやむ得ずもっています。
意味はつねに相対的なものであり、部分的なものです。
どこかの視点から見えたものであるということです。
意味は目的である?
「私たちはなんのために生きているのか?」
まず、ある行為を肯定するためにはふたつの方法があると考えます。
第一にそれがなにか別の目的、行為外部の目的の手段であること。
第二に、それそのものを楽しめること、それそのものが目的であること。
アリストテレスは前者をキネーシース、後者をエネルゲイアと呼んでいます。
普通一般の行為を肯定するには、楽しいからするのでも、なにか目的のための手段としてするのでも、構わないでしょう。
けれども、それらの行為の全体、生の全体においてはどうでしょうか。
「棺を蓋いて事定まる」という言葉があります。
物事の全体的な意味は事後的にしかわかりません。
なぜなら、全体性が事後的にしかあらわれないからです。
現れていないものを認識することができない、その意味を捉えることはできないことは先に確認したとおりです。
自分が死んだ後、世界がどうなるのかということは決してわかりません。
自分が死んだ後の世界を認識するには、自分が死んだ後に続いている世界を眺める自分の視点が不可欠ですが、死ぬということはそうした視点が失われることに他ならないからです。
私の死の絶対性
さて、しかし、私たちは一般に、物事を「目的-手段」の枠組みによって理解する習慣を内面化させられています。
私たちは外部の目的を求めると死を引き受けることができなくなる
なぜなら、死はその外部を否定するからです
目的はつねにさらに上位の目的の手段となって続いていってもらわなければ困る
ネオマニーという態度
新しいものがつねによいという前のめりの意識のこと
私たち
世の中を成り立たせるためのルールは破ることができない