なぜレイプは悪いのか
他人を自分の欲求を満たすための「手段」として扱うからではないか
他人を代替可能な存在にするからではないか
他人の自由意思を無視して同意なく参加させるからではないか
「女は貞淑でなければならない」という封建的規範を本人の同意なく侵犯させるからではないか
なお、上で引用しました「1回目」の上野さんの発言内における、「自分の身体に関する自由」というのは、文脈からして、「自己所有権」を指しているので、リバタリアニズムの論点と重なっていると思われます。ということで、次回は、上野先生の言うところの「性的自由」と「結婚」の関連について、リバタリアン的見地からまとめる予定。
IdeaFlow 上野千鶴子さんのフェミニズムの「客層」と「受容」 ―「性的自由」への固執と過剰に内面化した「女性性」―(『ザ・フェミニズム』をマトモに読む④)
http://ideaflow.blog26.fc2.com/blog-entry-264.html
よくわからないけど、ある文脈においては「性的自由」は身体の自己所有権と結びついている、らしい。
そのことは理解できると思う。
身体の所有権ということは身体加工とつながっている
→刺青
ただ、「身体」は幻想である。
私たちは身体というものをただそのものとして捉えることがない。
わたしたちは自分の背中や後頭部や顔を直接に見ることが出来ない。
私たちにとって自己自身の身体はつねに断片としてしか現れない。
身体の全体像は幻想である。
エンバーミング、死者の化粧
生きているかのように表面を取り繕うこと
死体は「人間」であるとともに「物質」である
なぜこの作品は私を動揺させるのか
レイプの悪をまざまざと見せるから、ではない。
そうではなくて、私たちに臨在的な「存在の悪」を見せるからだ。
人間は一人残らず、「存在することの罪」を背負って生きている。この罪(sin)は、刑法上の犯罪(crime)
とは異なる。人間は自己の生を継続するために、動植物の生命を奪い続ける。子孫を残すためには、性欲を発露しなければならない。存在には平等に「罪」と「悪」が内包されている。
中島岳志
初出、『毎日新聞』2012年、3月21日夕刊記事(らしい)
KAWADE夢ムック文藝別冊『さよなら、吉本隆明』2012年5月30日初版発行
黒人達は、たしかに、何も考えていないように見える。
ただ欲求を満たすためだけに、レイプをするように見える。
本人達からの証言はないから、結局、動機は明らかにされない。
お世辞にも、そこに思考の痕跡は、見えない。
逡巡は、ない。
が、女性器の刺青が、死を覚悟した「あと」に、彫られたものであるとするなら、どうか。
生命としての存在を継続するために、生殖のためにレイプをする場合、これを否定できるか。
このとき、私たちが種的自己保存を自らに許していること、私たちが、類的に生きていることが、ひるがえって、問題にされなければならないのではないか。
私たちの生は、その意味や根拠を、「人類」に頼っていないのか。
人類の発展や成長の過程として、己の生を肯定するところを一切もたない人間以外が、彼らのsinを非難することはできない。
それと、今回いちばん根源に近い考えだとおもうのだけど、死を覚悟したら何をしても許されるのではないかとおもう。
というか、何をされようが構わないと思っている奴がいたら、裁けないのではないか。
あとで、凄まじい拷問にかけたら、絶対後悔するとおもうけれども、それは意思する主体のほうが書き換えられてしまって(変成されてしまって)失われるから、しばらくまえにいたはずの「何をされても構わないという未来への無責任な人間」を裁くことにはならないのではないか
レイプされたひとにかける言葉がないことについて
言うまでもないが、「きみのきもち、わかるよ」という言葉は自制されなければならない。
「わからない」と信じるからだ。
そこでは、沈黙以外に相対的な礼節はありえないのではないかとおもう。
身体が物象化されている際には、同情、「あなたの考えがわかる」のではなくて、わたしにはわからないあなたの考えがあるようだ、という理解不能性のほうが、いくぶん、独自な他者の私的領域の再起動に資するのではないかと思われるからだ
接近すればするほど遠ざかっていく無能の前で頭を垂れることしかないのではないか
それは、死者に対する私たちの態度と相同的であるように思う
男が女をレイプすることと、女が男をレイプすることの非対称性について
まず、生物学的身体的差異と社会的性的差異は不一致である
フェミニズムにおいては「妊娠」をどう考えるんだろう…。
堕胎は殺人にあたるか、とか考える必要があるのかな
有色人種が限界的労働に従事(けつぬぐい)させられること
死体処理と物量作戦の最前線で「消費」せられること
黒人集団レイプ犯と敗戦後日本人は連帯しうるか
相互的倫理と非対称的倫理
相対倫理、絶対倫理
前者は「ともがら」とともにあるためのエートスであり、後者は「ともがら」を構成する神的善である
無時間的な「目には目を」では、類は成立しない
「右の頬を打たれたら左の頬を差し向け」るのでなければ、ならない
そのことと、黒人の刺青が男性器ではなくて女性器であることとは、どこかで繋がっている気がする