集まりもしない学生たちと集まることも許されないと考える当局との対立という茶番 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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さきの「早稲田大学野球部優勝おめでとう鍋会」を解散させる根拠として、早稲田大学学生生活課は「(当局は)集団による大隈像前広場の利用を認めていない」と述べた。


これは、たいへんな暴挙であるといわねばならない。

これまでの規制とは決定的に質を異とする事態である。


少なくとも、これまでの規制はなにか外部に根拠を求めていた。

たとえば、広場(彼らに言わせれば「通路」にすぎないということになるのだが)を利用することは動線を塞ぐことになる、とか、火気の使用は危険である、とか、騒音は近隣住民の迷惑になるから、とか、つたないものではあれ、なにかしらの正当化を行っていた。


けれども、集団そのものの禁止ということは、そうではない。

集団の定義について質問したところ、職員は恣意による、と明言した。

これはもう、どうしようもない。

何をやろうが私の気に食わないものについてはすべて弾圧します、と述べているに等しいからだ。


大学をレジャーと履き違えているのはなにも学生だけではなく職員も同様である。

情けないことこのうえないが、この状況は教授/研究者(学部生も研究者のはしくれである)における矜持の不在に端を発するように思う。

大学は、知の保存、伝達、さらに、「創出」をその本分とする機関である。

いまだかつてない知の創出の機関が、最も斥けなければならないものは「ドクサ(臆断)」である。

恣意による弾圧を許すことは、学問の府としての矜持を捨て去ることに等しい。


早稲田はいま、学問の府であることをやめようとしている。

就職予備校なら大原でいいじゃないか。

鍋すらできない大学に明日はない。