逐一的返事(濁ったオブリージュに寄せられたハクロのコメントに対して) | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ごめん、箇条書きになってしまった

どっちがいいんだろう?

こちらのほうがよりきちんと答えているようだけれど、ちょっとくどいかな

二段構えにするか

ぜんぜんQではないんだけどQと書いた



Q01

実はノブレス・オブリージュに関する立場は僕と君で一致している。此の前の記事には書かなかったことを君が言ってくれている。

おっ、まじかよ!

「ノブレス・オブリージュなんてくそくらえ」って思ってるんだけど、いいのかい?


Q02

「ただのひと、つまらないひと、市井に生きる名もない大衆はすごいということを認め」
ここもほとんど同じ立場。ただ何をすごいと認めているのかで不一致がありそう。

たしかに、たぶん不一致がある。あとでかく


Q03

一番の差異は、
「純粋な抽象からはじめて現実のほうをそれに適合させようとすることは諦めました」
というところ。

理念から現実ってことか

ぼくも結局理念を掲げるんだけど、でもなんていうの、歯切れのよい言葉を諦めるというか、ためらいをもつというか、優柔不断になるというか


Q04

君の言う通り価値観の押しつけはほぼ確実に失敗するだろう。
だが僕の広めたいものが、価値観ではないとしたら、どうだろう?

結局価値観といわれれば価値観なんだよね?


Q05

ご存じと思われる
フライングスパゲティ・モンスター教。
彼らの理念は、
「自分たちを納得させることができるなら、
今自分たちが持っている理念すらも捨て去ってみせる。」

知ってるしってる

へえ、けっこういいこというじゃないの

ポパーの「反証可能性」に近い

もちろん、同意する


それはカール・ポパーのいう「反証可能性」のありかたと同一である。
ロビンソン・クルーソー的単独者は、無人島でどれほど厳密な手続きで、どれほど精密な実験を行っても、科学的真理に到達することはできない。
それは彼が実験によって到達した命題が科学的に間違っているからではない。
命題の当否を吟味するための「集合的な知」の場が存在しないからである。科学者たちが集まって、ある命題の真偽について議論するための「公共的な言論の場」が存在しないからである。
「反証不能」とはそのことである。
命題そのものがどれほど正しくても、他の専門家たちによる「反証機会」が奪われている限り、それは「科学的」とは言われない。

情報リテラシーについて (内田樹の研究室)、2012/01/07閲覧

http://blog.tatsuru.com/2011/09/16_1350.php


Q06

常に換骨奪胎していく精神。
これを広めていきたい。

これも価値観じゃないの?と言われれば
そうだが、
今までのものと違うのは、
当初の理念が否定されることも厭わないということ。
完全に否定されても構わない。
だから、相手が僕の言ったことに反論してくるなら
もう僕はそれで満足なのだ。
そこには争いはない。ただ共役があるだけだ。

広めたいのか、否定されてもよいのか、わからない

ただ、「反論してくるならもう僕はそれで満足なのだ」ということはわかる気がする

反論という応答、コミュニケーションの成立って可能だと思う

けんかするほど仲がいい、じゃないけどね


あと、共役ってなに?

調べたら、ふたつのものが結びつくこと、または、同じ働きをすることとでてきた

結びつくことのほうだよね?


Q07

僕が呈示したいのは、
あくまで思考する環境であり、
多様化を目指すものであって、
同一化を目指すものではない。

議論の場所作りみたいなことはすごく賛同する

みんなが話し合うための場をつくることはすごく大事だ

けれども、それが目的化するのは…なんとなくからっぽなような気がする

それとはまたべつに、自分としては何を主張するのか、どういう考えをもつのか、やっぱりあったほうがいいよね


Q08

僕と世界では、世界が僕より正しいということはない。反対に僕が世界より正しいということもない。
だが、もしかしたら、どこかに
正しさがあるのかもしれない。
ならば、諦めてはならない。

後回しにしたことだ


「吉本=加藤の「思想のオーソドクシー(正統性)」という言葉があります

思想はつねに大衆のほうを向いていないといけない、大衆に験され、鍛えられなくてはならない、大衆に支持されたほうがオーソドクシーをつかむのだ、ということです

これはカフカの「君と世界の戦いでは世界に支援せよ」という言葉とも近い

馬鹿で物を知らず語ることのできない大衆のほうがぼくやきみより正しいということです

ぼくはこの立場を支持しています」


このままです


「僕と世界では、世界が僕より正しい」と思ったので、ぼくは「ただのひと、つまらないひと、市井に生きる名もない大衆はすごい」と書いたのです


なぜ「大衆が正しい」のか

記事を改めて書きます