まっとうな生活は人間を明晰にするようです
ぼくの目にも、世の中が少し遠くまで見えるようになっていることに気がつきました
ハクロ君へ
結論から書きます
「就活のために大学の時間を割かねばならない」とぼくはまったくおもっていませんし(これはたぶん伝わっている)、「ハクロは「就活のために大学の時間を割かねばならない」とおもっている」ともまったくおもっていません(こちらはたぶん伝わっていない)。
「正月から騒々」のおかげで君の考えがよりはっきりわかってとても面白かったですが、入り口はへんなところからはじまっているな、とおもいました
そして、たいへん残念ですが、ぼくにはノブレス・オブリージュはできません
ぼくはさきに、読書メーターにこのように書きました
「うわ、感想書くの難しいほうから登録しちゃった。えっと、そもそも、大学という時間が何のためにあるんだろう、就活の切迫に苦しまなくてはいけないのか、と思って「時間と労働と充実」を考えたくて本書を開いた。細かいつながりはわからなくなったけど、大掴みできたのは、この苦しみの多くが「近代的時間意識」によるものであることだ。前のめりの、目的論的な認識、直線的な意識運動、そういうものは「今」をおろそかにしている。充実にもいろいろある。焦ってはいけない。いまの中にずずっと潜っていく先にどうじに何ものかと出会う道がある」
ハクロはきっとこれを読んでくれたんじゃないかとおもいます。
ただ、補足しておけば、「大学という時間が何のためにあるんだろう、(ぼくはなぜ)就活の切迫に苦しまなくてはいけないのか」と書いたつもりはなかったです
「大学という時間が何のためにあるんだろう、((まずはぼくを除く)「わたしたち」はなぜ)就活の切迫に苦しまなくてはいけないのか」と書いたつもりでした
二点。
01:僕は「就活の切迫」をそれほど感じていません
02:「就活の切迫」が今日の大学一般を覆っているのではないかということは、僕自身の生活における観察からもたらされた認識であって、ハクロくんの文章から示唆された(誤読した)ものではなかったようにおもいます
僕は現在一年生です
就活はまだ遠い話であるとおもっています
それが「甘い認識」であるかどうかということはべつに議論があっても、現に僕自身において「就活」はさほどプレゼンスの大きな問題ではないことは(みなさんの大学一年の頃を想起していただければわかるように)、明らかです
そもそも「就活の切迫」が問題になったのは、
・大学の文化が貧しくなっているのではないか
・なぜか
・「就活の切迫」によって大学の時間が蝕まれているからではないか
と、遡及的に考えたことによります
はっきり言えば、他人の就活なぞ知ったことではない
しかし、大学文化が貧しくなるのであればそれは同時に一年生である僕の問題でもあるでしょう
「「就活の切迫」によって大学の時間が蝕まれている」の前段には
・「就活を気にしている大学生が多い(から影響力がおおきい)」
・「就活は時間意識を変質させる」
というふたつの論理がかくれています
就活を気にしている大学生が多いのではないかということは早稲田の三年生の姿をみたり、一般のニュースから教わった認識ですが、たぶん争うところはなく明らかでしょう
「就活は時間意識を変質させる」
こちらはこれまでのぼくの議論と、またべつにあらためてその妥当性を考えたいと思いますが、とりあえず、ぼくは依然としてそう思っています
◆
「ノブレス・オブリージュ」について
言葉自体はテレビアニメ『東のエデン』で知っていました
ヴィクトリア朝における貴族のエートスであるとか聞いたことがあります
ぼくにはノブレス・オブリージュはできません
ぼくにはエリートを自認することも、「持てる」人として「ノブレス」にふるまうことも、できません
「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」と思っているからです(金もちに限らず)
まず、ぼくのおなかの中にはですね、(富を)持てる人に対するルサンチマンと負債をもたざる人に対するルサンチマンが煮えたぎっています
でも、まあニーチェに言わせればそんなものは「負け犬の遠吠え」にすぎませんね?
そこで、ぼくは負け犬の遠吠えとして見なされないように、客観的に(物心両面の)「貴族」を否定すればよいだろうとおもいました
以下、ぼくの主観的には「事実」ですが、たぶん都合のよい「フィクション」です
ぼくは小学生の頃の外傷的体験から、自分が「持てる」ことについて疚しさをおぼえるようになりました
それは具体的に卑怯なことをして手に入れたものについてもっていることが疚しいというのではなくて、どんな場合にも人より多く持っているという事況そのものが疚しく思われるということです
そのためにぼくは「持てる」状況から逃走するようになりました
もつたびに逃げるのですから、もたざる立場に転落していくことになります
もたざるようになっても、持つことは尚も疚しく思われて、もてるようになろうとすることは選択できませんでした
ぼくは持てる状況から構造的に疎外されるようになりました
けれども、どうして一般にもつことそのものが疚しいのでしょうか
卑怯な手段をとらずとも存在そのものが卑怯であるからです
存在そのものが卑怯であるのは、過去に自分が悪いことをし、それを償っていないからです
人を騙すにはじぶんを騙す必要があるので、ぼくはその記憶を抑圧することになります
だから、なぜかわからないけれどもあらゆる持てる立場から疚しくて逃げ出すようになったわけです
しかし、原的な負債、原的な倫理の喪失は人間の成熟には不可欠です
言い換えれば、人間である限りかならず卑怯な存在である
持てる立場に甘んじる人間は倫理の喪失に、純粋な正義の破綻に目を瞑っている人間ではないか
つねに貴族は罪深い過去の忘却の上に成立しているのではないか
したがって、ぼくにおいてはオブリージュとは返済・返礼である他ありません
ぼくから与えるのではなくて単に返しに行くことです
あと申しわけないんだけど、ニーチェの超人ってぼくきらいなんです
性格悪そうじゃない?
しかも、たぶんうまくいかないし
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新自由主義者が唱えた「トリクルダウン」理論というのは、勝ち目のありそうな「栴檀(エリート)」に資源を集中して、それが国際競争に勝ったら、「露(人より富んでいる物)」がしもじもの「南縁草(もたざる者)」にまでゆきわたる、という理屈のものだった。
だが、アメリカと中国の「勝者のモラルハザード」がはしなくも露呈したように、新自由主義経済体制において、おおかたの「栴檀(エリート)」たちは、「南縁草(もたざる者)」から収奪することには熱心だったが、「露をおろす(分配する)」ことにはほとんど熱意を示さなかった。
カッコ内ぼくの注です、『百年目』のトリクルダウン (内田樹の研究室)、2012/01/06閲覧、http://blog.tatsuru.com/2011/11/25_1036.php
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ぼくが超人(彼岸の価値)に対置したのは、凡人と子供です(「凡庸と稚拙の此岸」)
ただのひと、つまらないひと、市井に生きる名もない大衆はすごいということを認め、それから、純粋な抽象からはじめて現実のほうをそれに適合させようとすることは諦めました
吉本=加藤の「思想のオーソドクシー(正統性)」という言葉があります
思想はつねに大衆のほうを向いていないといけない、大衆に験され、鍛えられなくてはならない、大衆に支持されたほうがオーソドクシーをつかむのだ、ということです
これはカフカの「君と世界の戦いでは世界に支援せよ」という言葉とも近い
馬鹿で物を知らず語ることのできない大衆のほうがぼくやきみより正しいということです
ぼくはこの立場を支持しています
別に天地の碧山にあらざるあり