ぼくはさきにこう書いた
「日本はこれから坂を下ってゆく。そんな時代に気分よく生きるにはどうしたらよいのかと問うべきだという。みんなで海を見に行こう。きっと山上にないものがある」
これからぼくはどう動くか
棒のお稽古と政経会のプレゼンと児文研のゼミとTGKの勉強会で力をつける
それがよいことかはともかくどうしても成長したい
成長への駆り立てに抗えない
でも、それらはたんに手段として扱われるのではない
補助線をひこう
稽古は練習ではないといわれる
練習はただの手段であって目的ではない
つねにその外部に「本番」が設けられていて練習はそのはしためである
けれども稽古はそのほかに本番をもたない
稽古に外部はない
稽古におわりはない
実際の戦場において殺し合いをするのであっても、それもまた「ただの稽古」にすぎないのである
アラバスタにおけるゾロを想起しよう
ぼくがそこから成長したいと企む経験のすべてはどうじに稽古である
ぼくが主体的な練習として扱おうとしつつもどこかで裏切られている、「稽古」させられているのでもある
だが、それをどこにむけようとするのか
まずはいくつかの組織の維持である、彼らを生き延びさせることを掲げる
そして、大学闘争をやってみる
時代錯誤だろうか
誰かが言っていた、時代錯誤なものはエロティックである
それは抗いがたく魅惑的である
まずはなによりも早稲田を解放する
早稲田の古い文化が復興され、それから揚棄される
おなじことをスケールを変えて「日本」でもやる
ぼくはいま特殊なもののうちから普遍なものが現れてくるみちすじを学びつつある
綱領には「破壊」ではなく、「連帯」が大書されることになるだろう