ゴーシュの方へ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

さきに「ぶきっちょ」で意識高い学生批判を載せました。

が、あれは以前作成した文章の一部でした。

烏茹さんから続きあるならみたいとありがたいお言葉を頂いたので全文掲載です。

初出は11月1日の国文学会児文研ゼミです。

まあぼくの文章だから差し障りはまるでないとおもうよ!


ちょっと直した

が、一部フォントサイズ変えれないのはどうしてだろう

まあいいやめんどくせえ


『セロ弾きのゴーシュ』


~震災に応えるに「印度の虎狩」を以ってせよ~



考察0 なぜゴーシュなのか

こういう読み方をしてよいのかわからない。みなさんに怒られるかもしれないなと思う。けれども実際そのようであったので仕方がない、怒られたら怒られたで謝るしかないだろうな。僕は今度、さきの震災を考えようと思った。細かい話はまたあとだ。震災、と思ったときにふと出て来たのが『セロ弾きのゴーシュ』だった。直感というほかない。ゴーシュを読めば、東北関東大震災を考えるに際して参照すべきことはそこにぜんぶ書いてあるだろうとおもった。だからゴーシュなのだ。

けれども、書物はこのように世界のうちに置かれてもよいのか。何かのために読まれるというような功利的な態度は許されるのか。テクスト論という立場があるそうだ。むつかしい話は僕にはわからない。テクスト論は僕の理解では「書かれたものの最終的な意味は誰にも(書いた当人さえも)決定できない」ということだ。したがってテクストの意味はテクストの限りにおいて、そのつど読み手によって差異を伴いつつ再生されるものであるだろう。テクストは私たちにそのつど新しい意味を開示する。読み手が変化すればテクストの意味も変わる。僕はそう考える。震災について考えるようチューンナップした頭でゴーシュを読めばゴーシュはそちらへと引っ張られたかたちで現れてくるように思う。僕にいわせればそれがテクスト論なのだ。テクストはどこまでもままならないままのテクストであるけれどもそれを読む読み手は世界状況のうちでつねに変化を続けている。その好悪にかかわらずテクストは読み手を介してつねに世界のうちに繋留されている。

ゴーシュを考えていくなかで、「どうして地震を考えるのにゴーシュなのか」という外側の問いもまた同時に答えられていくことになるだろう。


底本

『セロ弾きのゴーシュ』

宮沢賢治作 角川文庫 1996.5



考察1 二つの問いと答え

『セロ弾きのゴーシュ』は不思議な童話であると思う。一読目にはすらすらっと読めてしまう。ゴーシュは成功をおさめ自分の経験を見つめなおし、カッコウに辛く当たったことを反省する場面で終る。すんなり説得されてしまう。けれどもよく目を凝らしてみれば作中の出来事はばらばらと並在しており、互いに断線しているように思われる。

ゴーシュはたいへんな努力をする。動物たちが訪ねてくる。ゴーシュのところへさまざまな依頼をもちこむ。何かを教わったり快復したりする。ゴーシュはセロが上達している。

ここでゴーシュの成功の物語と動物たちのエピソードとのつなぎ目に位置するのはつぎのふたつの問いであるようにおもう。すなわち「どうしてゴーシュはこれほどの短期間で見違えるほど上達したのか」、「どうして動物たちは快復するのか」のふたつである。一読してすらすらと繋ぎ目を渡ることができるのは作中、明るいところにこのふたつの問いに対するはじめの答えがおかれているからである。ゴーシュが上達したのは動物たちの依頼がセロのレッスンとしても機能したからである。三毛猫からは感情表現を、かっこうからは音程を、狸の子からは楽器の癖を、鼠の親子からは人に尽くすことを教わったのである。動物たちが快復したのはゴーシュが指摘したように

セロがあんまの役割を果たしたからである。


「ああそうか。おれのセロの音がごうごうひびくと、それがあんまの代わりになっておまえたちの病気がなおるというのか。よし。わかったよ。やってやろう。(『ゴーシュ』、p201ll1ll2)」


かくしてゴーシュと動物たちはWin-Winの関係にある。なるほど。けれども僕はこの答えに満足できなかった。動物たちの示唆程度で、楽団内の指導では改善されなかった演奏技術がこれほどに上達するのだろうか。セロがあんまの役割を果たすというだけで動物たちが治療のために訪れるなら世界中のセロ奏者の家には動物がひっきりなしにやってくるのではないのか。疑問が残る。

ではどう考えたらよいのか。まずゴーシュの急激な上達についてであるけれども僕は次のようなことを考えた。ゴーシュは少なくとも作品の中ではたいへんな努力をしている。これだけ努力できる人間なのであって、作品に描かれている時期以前からやはり努力し続けてきているのではないだろうか。けれども冒頭において描かれるようにゴーシュは楽団のおちこぼれである。これほど努力する人間がなぜこれほど下手くそなのか。ゴーシュはその報われなさにおいてきわめて特異である。

ゴーシュにおいては努力と報酬を繋ぐ回路が欠落しているのではないか。RPGにおいて、戦闘の経験によるキャラクターのレベルアップと能力の向上が非同期であるものがある。レベルアップによってボーナスポイントが与えられ、それを各種能力に割り振ることで「どの能力を成長させるか」を自由にカスタムすることができる制度である。説明しづらい。いわばゴーシュの急激な成長はこの「能力値の割り振り」の段落が埋められることによって生じたのではないかと考える。しかしそれはどのようによってだろうか、また考える。

次いで動物たちの訪問と快復であるけれども、こちらについてもたんに何が起こっているのかではなく、今までに起こらなかった何が起こっているのかと問う必要があるだろう。なぜゴーシュのところだけに動物たちはやってくるのか。なぜゴーシュだけに動物たちを癒すことが、満足させることができるのか。それはセロ弾き一般ではなくただゴーシュだけがもつ決定的な要素があるからだろう。作中の時系列を確認したいのだが、動物たちは上達を果たしたゴーシュのところにではなくおちこぼれのゴーシュのもとに訪れている。美しいセロの音色が癒しの効果をもつというならぜひゴーシュが上達した「あと」に動物たちには訪問していただきたい。しかし作中においてはそうではない。物語の終わりにゴーシュは次のようにひとりごちる。


 それから窓をあけていつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら、「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と云いました。(『ゴーシュ』、p206ll9ll12


かっこうにもう二度と会えないかのような言い草である。じっさいそうであるようにここでは読もう。上達を果たした人間のもとには動物たちは訪れない。なぜか。そこへ訪ねて行っても快復もしなければ満足もさせられないからである。動物たちが快復・満足するのはゴーシュの「努力と報酬との回路」、「割り振りの段落」の欠落のためである。ではなぜ欠落によって快復するものがいるのか。それを次に考えよう。

以上から、ゴーシュが急激な成長を遂げたのは「努力と報酬との回路」、「割り振りの段落」の欠落が埋められたからであり、動物たちの快復もまさにその欠落のためであると考える。そこから、なぜ欠落は埋められたのか、欠落によってなぜ快復するのか、という欠落をめぐるふたつの問いが導かれた。



考察2 ゴーシュのうろ

 残念ながら二つの問いの答えとなる欠落のメカニズムは作中には描かれていない。そこに問題が埋まっていることが示唆されているだけである。しかし、問いと答えという構造についていえば、適切な問いが立てられた時点で仕事のほとんどは終っている。問いに対する答えを用意することは大した問題ではないだろう。あとは道をたどるだけである。僕ならば次のような説明を与える。

「意識の高い学生」というものが気に食わない。意識の高い学生というのは僕の理解では、資格をとったり、自己啓発本を読んだり、就職活動イベントを開き経営者や一流企業のビジネスマンを呼び名刺を集めて人脈を構築したりするような人々のことである。たいへん結構だと思うが近くには寄らないで欲しい。そこではなにかが転倒しているように思われる。意識の高い学生は何をしているのか。彼らの「充実した」学生生活は何によって報われるのか。非生産的な文学サークルに現を抜かす同級生を尻目にスタートダッシュで決定的なリードをとることによって就活に成功し、キャリアアップし名を上げ金持ちになり自家用ジェット機やカリブ海の島やフェラーリやドンペリやアルマーニを手に入れることによってだろう。「天は自ら助くる者を助く」。結構じゃないか。

けれどもそれは時代の支配的なイデオロギーを反映しているにすぎないのではないか。盲目にしたがっているにすぎないのではないか。努力を積む人間には「にんじん」が、怠る人間には「鞭」が与えられるべきだとされる。にんじんと鞭が自助努力を促進する。強い奴が生き残り弱い奴が脱落していく。「ノアの箱舟」以来の選民思想に基づく正義のあり方であるだろう。けれども僕は自分だけが助かることに興味が湧かない。自分だけが生きてもしかたがないとおもうからである。僕は何か金持ちの証を手に入れることによっては満足しないだろう。「充実」した大学生活も「意識の高い」活動も必要がない。もっと別の形があるのではないか。一人で努力して一人で助かるのではなくてみんなが助かるようなことがあってよいのではないか。「意識の高い学生」が一方の極端であるとすれば反対側の極端はみなを助けようとするボランティアであると思う。

だがボランティアも十分に身を任せられない、疑わしい。意識の高い学生と親和性が高いからである。ボランティアはどこか押し付けがましい、否定しがたい。「どうしてあんな奴らを助けなくちゃいけないんだ、そんなの知ったこっちゃない」とは口が裂けてもいえない。けれどそれはやはりおかしいのではないか。何かについての「私はそんなの知らないよ」ということばはもっともであるように思える。それはいわば空気胞のようなものなのであって、納まる場所がなければ息が詰まる。

以上から、純粋な自助努力と、いわば純粋な他助努力の二極に位置するふたつの立場のいずれをも退けたい。他の道があってよいはずなのだ。そして、それがゴーシュであるのだ。

ゴーシュの入り口は「そんなの知らないよ」ということばにはじまる自助努力である。しかし彼が一般の「意識の高い学生」と特異であるのはその努力の報いが欠落していることである。他方でゴーシュは他者を助ける。彼の演奏はどこかで動物たちを癒し人々を熱狂させる力を宿している。けれども彼はボランティアではない。人を助けようと思っていないからである。そんなの知らないと思っている。どこからか吹きぬけてきた風のように、そんなことは意図せざるゴーシュによって、動物たちが、観客が、快復させられ満足させられる。ボランティアは字義通り「自主性」という行為の帰属する主体が設定されているため立場上どうしても「知らない」とはいえない。したがってゴーシュはボランティアではない。ためらいなく知らないと言うことができる。彼はどこまでも自由である。ゴーシュは純粋な自助も純粋な他助も失敗している。孤独な上に報われもしない。彼は公に私事を優先させ、そのうえに私事も失敗する。「努力と報酬との回路」が断線しているためである。

動物たちが快復するのはなぜだろうか。そもそも病気を治そうと思って「セロ弾き」のゴーシュのところを訪ねるのは筋が通らないだろう。餅は餅屋である。医者のところに行けばいいのに動物たちはそうしない。医者ははじめから他助である。ゴーシュは努力するものの自助に失敗し、誤って他助に接続されてしまう。両者は、出口はおなじであっても入り口を異にする。医者ではなくゴーシュでなければいけないのは、この自助の入り口が快復に不可欠であるからだろう。なぜか。他助ということは助けるべき他者というものを予め設定している。パーティを開く際に招待状を用意するようなものである。だがパーティに参加できるのは招待状を持っている客だけ、招かれた客だけである。動物たちは三毛猫がそうであったように「招かれざる客」なのではないか。招かれざる客は招かれた客だけが入場できるパーティには参加できない。ゴーシュが救ったのはこのような誰からも招かれなかった存在である。誰からも招かれなかった存在は、逆説的だが、誰も招くつもりのないパーティにしか参加できない



考察3 印度の虎狩


 動物たちのことに関する議論は以上にする。どうして動物たちが招かれざる客であるのかということについては考えたけれどもまだ答えがでていない(治療の対価を支払えないからだろうか)。

最後にゴーシュがついに報われる場面を考えてみよう。物語の冒頭においては「第六交響曲」が中心におかれていたのに、最後にはそれよりも「印度の虎狩」のほうに焦点があわされている。これはどういうことなのだろうか。ゴーシュは第六交響曲のために努力してきたのではなかったのか。それに答えるにはまず第六交響曲は誰のために演奏されるのかということを考える必要がある。

第六交響曲はうまく演奏すれば賞賛される、自分のためになる。自助努力である。また、予め招かれた他人のために演奏されるのでもある。観客に動物たちは含まれていない。他助努力である。自助努力であるとともに他助努力である。二重に役に立つふるまいである。

 では印度の虎狩はどうか。三毛猫のために第六交響曲の練習の時間を削ってしまう。

三毛猫にとっても火花が出るひどい演奏である。一度目は二重に役に立たないふるまいである。第六交響曲は役に立つことが予めわかっているけれども印度の虎狩はそうではない。本来どうしようもないものが最後には、アンコールの時間、余分の時間には、役に立っている。それは、まさにアンコールの時間であるからではないか。アンコールは本編ではない。客が勝手にまだ席に残っているだけでコンサートの閉幕は済んでいる。彼らは招かれざる客である。また、アンコールに応える演奏者のほうも正規の演奏をするのではない。つまり、アンコールの時間、余分の時間においては、コンサート本編とは必要とされるものがちがうのだ。適用の問題だ。晴れた日に日傘が、雨の日に雨傘が必要とされるように、コンサート本編とアンコールとではまったく異質な時間なのである。ゴーシュは自助に失敗する。努力と報酬の回路が断線しているためである。そのためゴーシュの演奏によって発生した電力は行く宛てなく放電されている。それがずうずうしい三毛猫のノックによって、招かれざる客たちのところに接続されてしまう。ゴーシュの努力は意図されず他助に繋がってしまう。電力は三毛猫に注ぎ込むことになる。そのために猫は火花を散らし、観客は万雷の拍手を送るのである。ゴーシュは「なんで他人のために演奏しなければならないんだ、そんなの知るか」と突き放す。だからこそ、アンコールの時間に、ゴーシュのセロは美しい音色を響かせるのではないか。コンサートはアンコールだけでは成り立たない。けれども、印度の虎狩のような演奏があっても、よい、とおもう。


おわりに 「きみはさきの地震にどう答えるのか」

あっと言う間に11月になった。時間の流れはそのつどの状況の中で伸び縮みするという。熱いストーブの上に手をおいている一分間は一時間のように感じられる一方で、かわいい女の子と会話している一時間は一分間のように感じられるだろう。大学生活は僕にとって熱いストーブであるよりもかわいい女の子であるらしい。

私たちがあとになってからそれまでに過ごしてきたところをふり返り、あるまとまった幅をもつ時間を連続する時間のうちから切り離し対象化したとき、それは何かしらの出来事によって満たされた器のように捉えられるだろう。「熱いストーブの上に手をおいている時間」であるとか、「かわいい女の子と会話している時間」であるとか。2011年というまとまった幅をもつ時間を、私たちが近い将来あとになってからふり返るとき、それはどんな出来事によって記憶されているだろうか。複数の出来事が挙げられるかも知れないがそのリストのうちには東北関東大震災は加えられてしかるべきだろう。さて、僕がつまづいたのは他でもなくこの「しかるべきさ」というものである。加藤典洋は『戦後を戦後以後、考える』のなかで次のように書いている。


 ここに喫茶店がある。ふつう喫茶店というのは、一階を開ける。一階がいっぱいになると二階も開け、二階に客を入れます。でも、この社会問題の「三種の神器」(朝鮮人元慰安婦問題、南京大虐殺、七三一石井部隊のこと、引用者注)からはじめるやり方はこの話でいうと、二階からこの喫茶店に入っていくようなものなんじゃないだろうか。つまり、人というのはまず社会的なこと、公共的なこと、いまの政府がどこかおかしい、とか、大学当局の学生に対する対応がおかしいといった身近なところからはじめて、その延長で、たとえば日本の戦争責任とか、朝鮮人元慰安婦問題への補償問題に関心をもつようになるのがふつうだと思うのですが、それがここでは、学部に自治会を作ろうという発想もない学生たちが、まず南京大虐殺、石井部隊、朝鮮人元慰安婦の問題から社会への関心を育てようという。そこでは、何かこの一階と二階の後先が転倒しているんじゃないだろうか、僕はそう思ったのです。(『さようなら、ゴジラたち』p35ll9ll17


 東北関東大震災が考えるにたらない問題であると言いたいのではない。そうではないけれども、大震災に対してあなたはどういう態度をとるのかとひとに真顔で迫ることは妥当なのかと疑問に思うのである。それは加藤さんの言う二階からの入場ではないだろうか。向こう側からやってくる大上段の倫理によっては、地震とはなんなのかを考えること、地震によって深く傷ついた人々のための社会的・公共的な課題の数々をまっすぐに引き受けることはできないのではないだろうか。かわいそうだから庇わなければならないのであると、親切と同情と良識の代表者を名乗る人々は言う。そうすることによって一時は人の関心を引くことができるかもしれないけれど、持たざる被災の当事者と持てる後方支援者という二項分節を入り口に持つ以上、それは後方支援者にとって結局は他人事とされるのであって必ず風化し忘れられていくことだろう。「一粒の麦、もし地に落ちて死なずば一粒のままにあらん。死なば多くの実を結ぶべし」ということばがある。東北関東大震災という一粒の麦が豊かな実をもたらすとすればそれは一度死ななければならない。「忘れねばこそ思い出さず候」ということばがある。震災という対岸の火事を忘れないように繰り返し思い出そうとするのではなく、それが私たちのうちに深く根を下ろせば、喫茶店の一階からの入場によってねじれなくまっすぐに繋がることができたなら、震災以後という時間、生き残ってしまった余分の時間に生きることが何がしかのものとなるのではないか。その第一の実践がゴーシュであったように、僕には思われる。

 何かに答えたことになっているか、十分に考えたといえるのか、わからないけれども、今回のゼミにおいては以上のようなことに取り組んだ。


参考文献

加藤典洋著(2005)、『敗戦後論』、ちくま文庫

加藤典洋著(2010)、『さようなら、ゴジラたち―戦後から遠く離れて』、岩波書店

河出書房新社編集部編(2011)、『思想としての311』、河出書房新社