地震プレゼンの議論がゴーシュからまっすぐつながっているので、こちらもアップしておきます。
初出は政経会一年プレゼン。
<Ⅰ.時間認識を変更せよ!>
・個人における効果、短期的目的…「心のケア」、「五月病の克服」
・社会における効果、長期的目的…「東北の復興」、「多様なライフスタイルの承認」
<Ⅱ.心のケア>
a.理由の不在
夫のほうが助かっていたかもしれない=死んだのが私であったかもしれない
生きている根拠が揺らぐ、主体性の損傷
「あなたが生き残ったことには意味がある」と慰めてもダメ
b.認識の構造
その出来事がなんであるかということは事後の視点において回顧的に決定される
因果関係⇒「最後の審判」=一切の出来事が終った時点の想定
c.自由な行動の条件
事後の視点→必然の連なり
出来事の時点→意味の揺らぎ
d.時間認識の転回
あなたが生き残ったことには意味がある=彼が死んだことには意味がある
→これじゃダメ
心のケアは「意味の揺らぎ」の肯定!
<Ⅲ.五月病の克服>
被災者が理由の不在に苦しむこと ≒ 大学生における五月病
中学受験→高校受験→大学受験→五月病・燃え尽き症候群
「地獄の沙汰も金次第」⇔「人間万事塞翁が馬」
学生生活を就活・地位や財貨のためにあると見なすべきではない
<Ⅳ.東北の復興=生物学的多様性の担保>
・復「旧」ではなく復「興」
・東北の復興=東京一極集中構造からの脱却
・異質な価値観を提示するミッションステートメント
◆
以下、ボツ原稿
なぜ時間か
細かい説明はあとでするけれども、私たちが暗黙裡に前提し、素知らぬ顔で人に押し付けている数値主義的な時間意識は、時代に支配的な一つのイデオロギーである。イデオロギーとは色眼鏡である。もちろん、それが大いに有効であるから私たちはデフォルトに設定しているのだけれども、その眼鏡も万能ではない。違う眼鏡があってよい。一般に流通しているものとはちがう時間の捉え方をここで示したい。
だが、それがなんの役に立つのか。
短期的にはこの議論が、被災者および被災者に対して引け目を感じている「あんまり被害を受けていない被災者」としての私たちの「心のケア」として機能するからである。長期的には東北の復興のために、全く違う時間意識が必要であると考えるからである。順に説明していく。
3月の大地震ではなにが問題なのか
たしかに3月の大地震によって日本は莫大な経済的損失を被った。経済が問題であることは大いに理解する。けれども、例えばこういう思考実験をすれば問題のありかが判明するはずである。莫大な経済的損失はあるけれども、一人の死者もでなかった事故と、一円も経済的損失が出なかったけれども莫大な人間が死んだ事故とではどちらがより重大であるか。もちろん人的被害もまた同時に莫大な経済的損失あるけれどもそれは措く。やはり後者であるだろう。前者とは答えづらい。ここにも道徳をめぐる重大な哲学的問題があるが、みな人が死んだらだめだという話には素直に説得されるのではないか。つまり、大地震ではひとが死んだことが問題なのだ。
人の死それ自体はお坊さんであるとか牧師さんであるとか宗教者に任せるとして、それに続く、人が死ぬことによって発生する問題を考えてみよう。
理由の不在
震災後、テレビで被災者に取材したさまざまなドキュメンタリーを見た。そのなかで、震災で子供を亡くした人が「どうしてうちの子なんだろう」と考えてしまうのだということを話していた。僕は以前これに似たケースを扱った議論を読んだことがあった。大澤真幸が阪神淡路大震災の折にいつもより10分前に起きてしまったがゆえに助かった主婦のケースについて引いている。
彼女は夫と一緒に朝早く起きる習慣をもっていた。震災が起きた日には妻だけがいつもより10分早く目が覚めたので朝食を準備していた。通常通りに眠っていた夫は倒壊した家の下敷きになって即死した。彼女は幸運にも傷一つ負わずに助かったのだが、やがて深い鬱に陥り、全身が麻痺して動くこともできないほどになった。
なぜだろうか。インタヴューに答えて「なぜ夫が死んで自分が助かったのか」と彼女は繰り返す。私こそがそこで死んでいたかもしれないということが、あるいはここで生きているのが夫だったかもしれないという可能性が消し去りがたく残ってしまうからではないかと大澤は指摘する。
アリストテレスは運動を二種類に分類している。
すなわち、エネルゲイアとキネーシースの別である。
エネルゲイアとはナンセンスな、無邪気なといっていいだろう、遊びであり、キネーシースは目的を伴う活動である。
ここでの有意味な運動とはキネーシースである。
そして、アリストテレスはさらに、キネーシースのパラドックスを指摘している。
たとえば、駅に向けて歩く、電車に乗るために駅まで行く運動を考えよう。「駅までいく運動」の「全体」を考えるとおかしなことになる。今、駅に向いつつある。しかし、駅に着くまでは、この運動はまだ終っていない。終っていないということはまだ一部分であるということだ。けれども、まさに駅に着くとその瞬間、運動はおわってしまう。
つまり、ぼくたちのまえに運動の全体は一度もやってこない。運動は「まだ」おわらないか、あるいは「すでに」おわってしまっているのであって、いつも「いま」はない。運動の全体について「ある」というためには、「いま」現にないのだから、「まだ」ないこと、あるいは「かつて」あったことの、過去と未来にだけあるその確かさ、根拠を「いま」に引っ張ってこなければならない。つまり、意味は時間の経過のうちにしか求めることが出来ないのである。
東北の復興
東北は「復旧」ではなく「復興」すべきである。旧に復すのではなく、復た新たに興すべきである。日本経済は永らく東京一極集中構造をとってきた。物を沢山売るためには、値段を安くするか商品の価値を上げるしかない。対応する方法はそれぞれひとつしかない。効率化によるコスト削減かイノベーションである。東京一極集中構造はこの効率化にあたる。規格の統一、差異の否定である。うまくいっているうちはそれでもよい。しかし東京の経済が落ち込むと日本全体の景気が悪くなるように設計されている。地震が東京を襲うと日本全体にその影響が波及してしまう。これではいけない。リスクヘッジとは、まずは多極化のことである。地方を、たとえば東北を、東京のコピーではなくまったく異質な他者とすることがリスクヘッジであるだろう。
震災以前の東北は結局東京の下部構造であり、その縮小再生産つまり劣化コピーであった。「東京と地方」というけれどもそれらは外的な対立ではなくて、前者によって後者が規定される同一の基盤のうえに成立するひとつのシステムである。
東京からの支援によって上から引っ張り上げてもらうのではなくて、東北自身が自ら築き上げなければならない。東北が快復し自らを築き上げていくためには、財貨・情報・権力、様々なリソースが必要であるだろう。何もないところにリソースを集めるためにはまずは人間を集めなければならない。人間を集めるために必要なのは言葉、ミッションステートメントだろう。その適否は、話が面白いか否か「だけ」にかかっている。
東北の復興にはミッションステートが必要だ
それは新しい価値観の提示以外ではない
新しい価値観とは新しい時間意識である
現に仕事が手につかない人がいる
どうして私がこんなひどい目にあわなくてはいけないんだろう
さきの大地震によって被災した人間は、多かれ少なかれこう思うのではないか。被害の程度に差はあっても、東北の人間も、東京の人間も、あるいは関西や他の地域の人間も、そう考える。ここで私たちを苦しめるのはどうして「この」私がひどい目に合うのかという理由の不在である。地震当日の朝も、みな通勤通学している。学校はおやすみかもしれないけれども、みなルーティンを当たり前にこなそうとしている。