ぶきっちょ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

「意識の高い学生」というものが気に食わない。意識の高い学生というのは僕の理解では、資格をとったり、自己啓発本を読んだり、就職活動イベントを開き経営者や一流企業のビジネスマンを呼び名刺を集めて人脈を構築したりするような人々のことである。たいへん結構だと思うが近くには寄らないで欲しい。そこではなにかが転倒しているように思われる。意識の高い学生は何をしているのか。彼らの「充実した」学生生活は何によって報われるのか。非生産的な文学サークルに現を抜かす同級生を尻目にスタートダッシュで決定的なリードをとることによって就活に成功し、キャリアアップし名を上げ金持ちになり自家用ジェット機やカリブ海の島やフェラーリやドンペリやアルマーニを手に入れることによってだろう。「天は自ら助くる者を助く」。結構じゃないか。

けれどもそれは時代の支配的なイデオロギーを反映しているにすぎないのではないか。盲目にしたがっているにすぎないのではないか。努力を積む人間には「にんじん」が、怠る人間には「鞭」が与えられるべきだとされる。にんじんと鞭が自助努力を促進する。強い奴が生き残り弱い奴が脱落していく。「ノアの箱舟」以来の選民思想に基づく正義のあり方であるだろう。けれども僕は自分だけが助かることに興味が湧かない。自分だけが生きてもしかたがないとおもうからである。僕は何か金持ちの証を手に入れることによっては満足しないだろう。「充実」した大学生活も「意識の高い」活動も必要がない。もっと別の形があるのではないか。一人で努力して一人で助かるのではなくてみんなが助かるようなことがあってよいのではないか。「意識の高い学生」が一方の極端であるとすれば反対側の極端はみなを助けようとするボランティアであると思う。

だがボランティアも十分に身を任せられない、疑わしい。意識の高い学生と親和性が高いからである。ボランティアはどこか押し付けがましい、否定しがたい。「どうしてあんな奴らを助けなくちゃいけないんだ、そんなの知ったこっちゃない」とは口が裂けてもいえない。けれどそれはやはりおかしいのではないか。何かについての「私はそんなの知らないよ」ということばはもっともであるように思える。それはいわば気胞のようなものなのであって、納まる場所がなければ息が詰まる。

以上から、純粋な自助努力と、いわば純粋な他助努力の二極に位置するふたつの立場のいずれをも退けたい。他の道があってよいはずなのだ。