戦後を読む | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

大学生活という時間が何によってあがなわれるのかということを考える

いや、あがないというとなにかしらの返酬を想定しているようだけれど、それはそういうふうに私たちの知覚ができているのではないか


報われるのかっていったほうがいいのか

よくわかんないんだけども


スケジュールの充実は人生の充実を意味しない

そもそも人生が充実したってだめなのかもしれないけれどもそれ以前にびっしりと埋まったスケジュール帳をながめてにやにやしているような奴はだめだ

それこそ「もつ」ことに満足しているに過ぎない


でもではどうしたら真の意味でよく生きているということになるんだろう


じんかん、人と人の交わりのうちに生きることだけがよいのではない

別に天地の人間にあらざるあり

碧山、わずらわしい俗世間の交わりから離れた自然のうちにもゆったりとした満足はあるのだろう

あるいはルソー的孤独、倫理や助け合いやボランティアや意識の高さやそうしたしんどいものなんか知ったこっちゃないというところに孤塁を守ることはあるだろう

そういうことに興味がある人は手始めに初期森見登美彦作品を読もう

あいつ最近転向しやがったけど


あの退廃的な甘いまどろみ、怜悧なまなざし、蝉の声や君と飲むビールや…

僕にいわせれば「奥能登的なもの」、アドレッセンスの光、それらの明滅という世界文学の水脈がある

もちろんあれらはよきものだ

でもそこからぼくは歩み出てきたのである


共同性の観念はどこからやってくるのか、それをやっぱり考えなくちゃだめだ


ほとんどたわごとで革命ということを話していた

「終戦後日本」というまどろみを吹き飛ばすべきなのだ

それは紅莉栖なんだという話をした(していない)

ぼくたちがいるこちらの世界線こそ「ありえたかもしれないもうひとつの世界」のほうなのであって、歪んだ鏡像なんだと思う

そして、だからこそ、ありえなかった経験として「戦後」を継承しなければならない

ぼくは紅莉栖派だからだ


というわけで吉本隆明を読んでいる