愛について走りながら考える | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

走り書きにて失礼

ハクロさんのブログを読んでいくつか疑問が湧いてくる

考えるのって愉しいよね


博愛と偏愛はどちらがより本来的な愛のあり方であるか?

正義の観念は人間を幸福にするか?

愛の見返りを求めてよいか?


「あなたのことが好きだ」ということはどういうことか。

ある人を好きであるということは、すべてのひと「よりも」多く強く好きであるということではないか。

好きであるということがすでに偏愛ではないのか


博愛は可能か

すべてのひとが好きであるということは幸福であるかもしれないけれども不可能な夢なのではないのか

そこでは好きであるということそのものがもはや意味を失っているのではないか

イエスはどう答えてるんだろう


正義というのはなにか

みんなが認める正しさのこと…か?

みんなが認める正しさがなければ「人々の幸福」という観念もまた不可能ではないか

各々の幸福の総量と全体の幸福というのはまったく違うことではないか


見返りを求める愛、有償の愛は愛ではないのか

では、「あなたのことが好きだ」とおおやけに告白する積極的動機はないのではないか

好きなら好きで黙っていればいいじゃないか

わざわざ声を大にして告白するのは有償の愛でしかないのではないか


僕は有償の愛、見返りを求める愛、偽の愛だけが愛であると考えている

有償の善、見返りを求める善、偽善だけが善であると考えている

でもそんなに考え抜いていないので、ぜひ批判を頂きたいです


あと細かい話なんだけど、「である」社会のほうが流動性は低いと思う

丸山が想定していたのは江戸の封建社会のことじゃないの

武士は武士、農民は農民、職人は職人、商人は商人。

動かない