どんなに話し方がうまくてもつまらなければきくに値しないとおもうねぼくは
和光市駅前のファンシーショップでウインドウショッピングする。
かんざしの挿し方を知らない自分に出会う。
知りません。
無知の知。
いろいろ思うところがある。
そりゃそうだろう。
誰もそうだろう。
はい。
なんですけど、こう、ほら、さあ。
あのーそのーえーとうーんと。
ぐぐぐぐぐ。
見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。
このフレーズがヘビロテしてます。
はあ。
ほら、ね。
あーうあーらー。
おいしょ、ぬぬぬ。
ひどいですね。
だめだ、ぼくはもうだめだ。
いや、そうだ、べつに最初からだめだった。
わーわーわー。
ヨーグルトを食べましょう。
ヨーグルトを食べればよい。
たとえば、大隈像まえのベンチに寝ていたとして、誰かに揺り起こされる。
で、それでですね、あの、そのひとがこう、ひそかに爆破計画を練っている。
それは止めるべきだろうかということを考える。
べつにそんなのどうでもよい。
いや、こういう想定であり、あるいはさらにひとつ下位次において、爆破計画ということが、です。
でも、いわばこの空中からの二段ジャンプというか、二重否定性の迂遠さによってかろうじて現れる「そのもの性」が、時空震のようなものを起こすんじゃないかということを考えます。
生々起滅ということが体得できたような気がする。
意味は差異である。
差異をもたらす分節はどこからくるのか。
二重否定性の断絶からではないか。
わー。
うさぎを買えばよかった。
どうしようもなくてもぼくはうさぎを買うべきだった!
わー他のものでもよかった!!
たいへん!!!