津波と原発と技を考え始める | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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あ、どうも。

地震についてさっきお風呂で考えました。

やっと考え始めているところです。


書きあぐねている。

問題はですね、問題がなんであるかということをのんびりと考える時間をもつ余裕のなかったことです。

どんなにいろんなことをやっていても、じぶんの頭で考える習慣をもたないやつはつまらない人間です。

参ったね。


で、とりあえずは、地震ですね。

地震と、小テーマとして「思想」。

地震を前にして思想はどのように可能なのかということを考える。

しかし、そのように考えるとはどういうことなのか。

目的はどこにむけて据えられるのか。

なにになるのか。


思想ということは人間の観念を相手取るわけです。

思想以外の小テーマとの最大のちがいはまさにその点に求められるであろうしそこに求められるほかない。

思想以外の小テーマが客観的現実を問題とするならば思想という小テーマにおいては人間にとっての主観的現実が問題とされることになるでしょう。


主観的現実ということはつまりどういうことか。

なんであるか。

ここでは地震を人々がどのように捉えたのか捉えているのか捉えていくだろうかということを考える。

では特にそれはなにか。

いろんなものがあるだろうけれども、そこで何に注目すべきか。


こういうときは、直感ですね。

素直になるべきなんです。

こういう思考の方法ってたぶんある種の人々の気にはさわるだろうとおもうのだけれど、学問の全体においてきわめて重要でありかつ確かなものなんだとおもいますよ。

いわば、文学的想像力です。

あるいは、武道的思考です。

肩の力を抜き、大きく立ち、意識を遠方に飛ばして、ゆっくりと息を吐いていく。


ぼくは地震を経験して、どのようにおもったか。

これは大変なことが起きたぞとおもいました。

戦後日本という時空間はなんにも動かないときところだと、ぼくは思っていました。

地震によってそれが揺さぶられるのか、やっぱり揺さぶられないだろうか、いやいややっぱり揺さぶられるのではないか、と、つまりはおもったのだろうと感じます。


地震のゆさぶりによって大きなものが、大きくて邪悪なものが揺り起こされる。

そういう観念を、少なくともぼくはもっています。

地震当時もっていたのかはわからないけれども、現在においてはたしかにもっている。

大きな邪悪なものというのは、ここでは明らかなものとしてはまず津波であり、原発事故であるでしょう。


津波と原発事故というのは人々にとってどのように現れたのか。

これらは同じようなものなのか、それともちがうものなのか。


それをいま考えています。


津波は天然自然のものである。

原発事故は人災であるとされる。

同じものなのか、ちがうものなのか。


自然を組み伏せて飼い馴らしたものが技術であるなら、原発事故は技術の野生化であるのではないか。

津波が原発の野性性を呼び起こしたのではないか、なんて考えると面白い。

技術ということをできるだけ深く遠く、考えなければなりません。


技術はまずはぼくは気に食わない。

飼い馴らしというのはぼくはごめんだからぼくもしたくない。

汝欲せざるところ人に施すなかれ。


けれども他方で技術と技ということを並べる。

技と言うのは、よい、ようにおもう。

先生を見ていると愉快になる、自由な気分になる。

技は力に対置される。

たんに身体がごつくてでかい奴が勝つというのはつまらない、くだらない。

けれども、力の弱いものが力の強いものに技で勝つことがある。

そうして力ということの次数がひとつ上がる。

低い水準の審級では裁けない現実があらわれてくる。

話はすこし複雑になるけれど、そのほうが自由で愉快で大きい。

ぼくは自分の目でそれを見ている。


技ということは人間の人間性の根源に関わっているとおもう。

ただの弱くてみじめでさみしい裸の猿が、どうして原発のような神がかった破壊力の装置をもつに到ったのか。

技術によって人間が人間たらしめられたのだ。

人間が新しい技術を生むのではない、技術が新しい人間を生むのだ。


そういうことを考えています。