探すのをやめる | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

わたしは何を欲望するか?


こんなんでいいのかなとぼんやりとおもうことがある

生活に飽きちゃうみたいな


でもじゃあここではないどこかほかのとこ今ではないいつかほかのときに「真なる生活」があるのだというべきなのかといえばそれはたぶんちがう

変えうるとするならそれは今だしここでしかないんだということがある


っていうような、なんだろう

カタバッタ考えがある


熱すぎる奴もむかつくし冷めすぎてる奴もむかつく


*


自分の所属している組織に寄りかかっちゃだめだとおもう

自分がなにかの組織に所属しているという事実それ自体をアイデンティティの拠り所にしているひとがいる

というかすごく多いんじゃないか


「実存は本質に先立つ」ってことばは、そうした所属していることだけじゃなくて、一切の性質についてそんなのなんの言い訳にもならないんだということだ。


バタイユは力を二種類に大別した

それはフォルスとピュイサンスである


ピュイサンスとは秩序性を維持する力のことであり、フォルスとは解体する力でありかつ構成する力である

どういうことか

すでになにかしらの秩序が先行している場合にはフォルスはそれを解体してしまうだろうし同時に何もないときには何もないところから秩序を立ち上げるのである

つまりフォルスとは変化の力でありピュイサンスとは変化を押し留めようとする力である


ぼくがいいたいのはまずはフォルスのほうがどこまでも遠く進むことができるということだ


*


めんまがジョーブツしたのは願いが叶ったからではないということがわかった


いつまでも終らない「終ってしまった時間」のあとで

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10850987343.html


自分で言うのもなんだけどこの記事おもしろいです


何かをさがすことは結局、さがされるべきものはそれではないことをわたしたちに教える。

私たちはそれが探されるべきものではないからこそそれを探しているのである。

その弱く誤りやすいこと、探されるべきでないものを探していること。

換言すれば、探しものをするも当の探されているものが明らかでないこと、なにを探しているかというまさにその目的が隠されていること。

それが私たちの生をぎりぎりのところでつなぎとめる。


めんまはなんでジョーブツしたのだろうか

まずは願いが叶うこと=じんたんを泣かせることではない

じんたんが泣いた瞬間にジョーブツするならその通りだけどそうじゃなかったからである


みんながめんまの願いをほんとうに叶えようとしたこと

ジョーブツさせるための手段としてではなく単にそれそのものを目的ととること

つまり、めんまの願いが生前のもの=明白なもの「ではなく」よくわからないことを承認することではないか


なぜめんまは成長した姿で現れたのか?

死者をたんなる「もはや人間ではないもの」として接しそれをはやく遠ざけようとすることは反って強迫的な反復を招くだけである

あたかも生きた人間であるかのように接しふるまうことが死者を過ぎ去ったものとする

めんまの表象は時間が彼女の上にもひとしく降り積もったかのように見せる

めんまがあたかも生き続けていたかのように見せる

そのことが導くのはそのままにめんまがいま何者であるのかわからないということである

しかも、めんまの意識はそれだけの時間を経た成熟したものではない


つまり、めんまが何を欲望しているのか当のめんまにもまわりの人間にもわからないのである

これは驚くべき事態である

なぜならばじんたんたちがめんまの願いをかなえようとどんなことをしてもそれがじぶんのほんとうの願いであることをめんまはついに言い当てることができないからである


「めんま、見つけた!」ということばの届かないところにめんまは立っている

めんまの願いは結局わからなかったし、めんまは見つからなかった

それは「喪の仕事」がはじめからそのように構造化された理不尽なゲームだからである

そしてだからこそ、その弱さと誤りと探索の失敗こそがめんまを立ち去らせたのである

ぼくたちはめんまには会えなかった

その出会い損ないがめんまの面影を逆照射するのである


つまり、めんまかわいいよね