ほんとうに・そのときは | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

人は何によって生きるか

いろんなものがあるだろうがそのひとつにとくに風変わりなものとして自己幻想が挙げられるだろう

自己幻想とはなにか

それはなにかしらの性質であるとともにそうした性質に対する嫌悪ではないか


わたしは何者であるのか

それは大部分がわたしはなにをするものであるかと問うているようにおもう

なにかをするものであるときそのようななにものかであるだろう


だがわたしは何者であったのかということとわたしはいままさに何者でありつつあるのかということとこれから何者であろうかということはみなちがうのではないか

何者であったのかということは過去の動かしがたさという確かさによってある程度安定した(「間主観的な」っていうのかな)なにかを指示することができる

何者でありつつあるのかということはどうか

すこしわからない

どきどきする

これから何者であろうかということはセンチメントにすぎないのだろうか

ぼくは鼠を思い出す

ぜんぜんわからない

誰にとっても等距離によそよそしい外部的なものを経由することなしに契約は成立しない

未来における確かさというのはつねに服従を必要とする

それはよいことだろうか

よくわからない


びっこをひきひき歩いていくわけじゃないですか

無限の白紙の中を

それってすごくかなしい


未来を過去形で語ることはかなしい

反実仮想になってしまうからだ

だがそれはなぜか

未来の重要な性質として未定性・未決性があるからだ

過去の不可塑性はそれを殺す


与件を愛するというのはむつかしいことではないか

愛と恋のちがいってなにかしらといえばそれはたぶん時間にある

時間を経て恋は昂進しうるか

ははは、ぼくに聞くなよ

与件を愛することがむつかしいのではないかとぼくがおもったのはそれが無(外/前?)時間的であるからだ

ア・プリオリとはまさに時間に先立っていることを指す


大きな入り口と小さな入り口と小さな出口と大きな出口

小さなシーニュについてはすでに信じているような気がする

現にぼくは語る

なら信じているのだろう


なにを探しているかというまさにその目的が隠されていること。

それが私たちの生をぎりぎりのところでつなぎとめる。

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10850987343.html


だが、ほんとうにそうだろうか


あるものは人の目の前にあってただあるものとしてあることができない。

好むと否とに関わらず人は必ずそれを「すでにそうなされたもの」として感得する。

それを何かしらのものとして感得するときは必ず「あるようにすでにそうなしているもの」を定めている。

「あるようにすでにそうなしているもの」が隔てる。

意味とは物自体に意味のないことを隠す覆いに他ならない。

意味が隔たれているのではなく、意味が隔てているのである。

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10785727202.html


目的とは生自体に目的のないことを隠す覆いに他ならなく、目的が隠されているのではなく目的が隠しているのではないか

嫌悪とは服従ではないか

ならば人間は変わるのか

何者かに、ひとかどの人間になりうるのか


ぼくたちはしばしば叶わないことを願う

手に入らないものを求める

過去を変えたい

未来を確かなものとしたい

欲望から解放されたい


でも叶わない

それはかなしいことか

どうなんだろう

かなしむ必要がない

かなしんでもかなしまなくても変わらないからかなしまなくてもいい


ぼくのほうはそれでいい

でもぼくのみてきたもの、死者たちのほうはどうだろう

ぼくがどうにかしなければどうにもならない

彼らは救われるか

救いうるのか

どうなんだろう

おまえがえらそうなことを抜かすなというだろうか

動機と正当性を基礎付けるというのはすごくむつかしい

たぶん結局はできないんじゃないだろうか

だからそれをいっちゃあおしめえではないか

うるせえよ

ぼくはぼくで勝手にやる

なぜかって?

なぜそんなことをするのかって?

なぜそんなことが許されうるのかって?

ぼくがそのつど***であるからだ


ところで

ほんとうにそれをいっちゃあおしめえなのは

それをいっちゃあおしめえだっていっちゃうときだろう