節電と原子力の是非 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

締め切りを蹴り倒し進んだ果てにトランスして書いちゃった(・ω<)
通して推敲してないので(!)局所的には食い違うかもですが、現代とは省エネルギーの時代なのだということがわかってよかったです?

読んでもしょうがないのでつまんないとこはパスしてます


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03:どうして電力は足りないのか
どうしていま電力が足りないのか。

直接にはもちろん先の大震災によって本邦の原子力発電機関が多大な損害を被ったためであるが、そもそもわれわれをして現行の原子力発電依存体制を選択せしめたのは、有限な化石燃料による発電からの脱却という国際的な流れである。

高度経済成長期以後日本はふたつの新たな問題を解決する必要に迫られた。

ふたつの問題とはすなわち、公害問題と開発持続可能性の問題である。

このふたつの問題は人間社会の成長・拡大の原因(入力)と結果(出力)におけるエラーである。

工業によって物を生産するには燃料が必要である。

けれども燃料にはふたつの限界がある。

燃料が底をついたら機械は動かないし、しばしば負のフィードバックを伴い、ただエネルギーが得られるだけではなく人間にとって有害な効果をも同時にもたらすことがある。
モダンが畢竟するところ自己存在の拡大運動であったとするならば、ポスト・モダンはその拡大運動についての反省というひとつ次数の高い課題であるということができるだろう。
つまり、現代思想とはつねにエネルギーについての思想に他ならないのである。
現代であるからエネルギーが足りないのではない、エネルギーが足りないのが現代なのである。

近代における飛躍的な社会成長以後、人類が求められるのはエネルギー効率とエネルギー生成の過程でもたらされる有害な効果の最小化を追求することである。

その過程において化石燃料から原子力への移行が選択されたのである。


Ⅱ.原子力発電の是非

02:原子力発電のデメリット
哲学者のデイヴィッド・ヒュームは帰納法的推論を批判する、次の有名なことばを遺している。
「今朝太陽が昇ったことは、明日も太陽が昇ることを何ら証明するものではない」
今回の大地震で露呈した、日本の原子力発電における危機管理の欠如についても同じことが言えるだろう。

今朝地震が来なかったことは明日も地震が来ないことを何ら証明するものではない。

現在も続く破滅的な危機を引き起こした原子力発電所の事故は3/11以前もいつ生じてもおかしくなかったことが後になってからわかった。

これはとても怖ろしいことだろう。

では、事故が怖ろしいから原子力をやめるというのは妥当だろうか。

それは事故が怖いから自動車に乗らないというナンセンスと同様ではないか。

そうではないと思う。

自動車事故と原子力発電所事故の決定的な違いはその被害規模にある。

自動車事故ももちろん悲しむべきことではあるが、一件の自動車事故がもたらす被害の程度は一件の原子力発電事故がもたらす被害の比ではない。

広大な土地が放射性物質に汚染されてしまうと個人には責任が取れないのではないか。

自由の保証が責任に裏打ちされている限りであるならば責任をとることができない行為についての自由は認められないのではないか。


03:原子力発電という「低いピーク」
私は以前家族と水上温泉郷に旅行したことがある。

当地には名高い谷川岳が聳えるが、谷川岳は双耳峰という二つの頂を持つ山である。

二つあるということは一方がより高く他方がより低いということである。

私が思うのは、原子力発電というテクノロジーはいわばこの低い方の山頂だったのではないかということだ。

原子力発電というものがポスト化石燃料としてひとつの頂に位置するとしてもしかしそれはどこまでもひとつの頂でしかないのではないか。

「02:原子力発電のデメリット」で見たように、地震などのコントロール不能な外部要因によって、数世代にも及ぶような取り返しのつかないほど莫大な被害が生じてしまうのであれば、現状最高のテクノロジーを放棄することは大いにあってよいのではないか。

私は原子力発電に反対する。

なぜならばそもそも原子力発電は省エネルギー・環境破壊問題という人間社会の持続可能性を担保する解決策として現れたのに、人間社会を直接破壊するほどの悪影響を及ぼすならもはや不適であるといえるからだ。

原子力発電に反対するならば代替案を示せという輩がいるがこれは議論が転倒している。

強いて答えるならば、「化石燃料による火力発電」である。

化石燃料が枯渇するならそれに先立って代替エネルギー技術を確立すればよいのであり、間に合わないならばたんに電力が使えなくなるだけである。

いずれにせよ今回の福島原子力発電所の大事故によって原子力発電の存在意義そのものが大きく揺らいだといえるだろう。

これ以後、原子力発電が積極的に採用されるとすれば放射能汚染を浄化する技術が現れるときではないか。


Ⅲ.結

節電と原子力発電の是非ということはどちらも、近代における飛躍的な発展を終えた人間社会が課せられた持続可能性という問題につながっている。

人間のライフスタイルは簡単には変えることができないしまた下手に変えるべきではないけれども、その持続可能性を損なうものは改めなければならない。

その一環として省エネルギーに取り組み、原子力発電を選んだのである。

けれども今度のように原子力発電がコントロールしきることができない、責任を取りきることができないものであり、また人間社会の持続可能性を脅かすものであることが明らかになったからにはそれに固執することはむしろ本来の目的に反するのではないか。

今もう一度持続可能性についての議論の入り口に戻って、省エネルギーの方法として何が適切であるのか見直す段階に到ったといえるのではないか。