法とはなんだろうか・その4 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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01:「ルールを守らないといけない」というルールなんて書いてないじゃん
今回も法律が論じられている。

中立的な法律によって規定される社会と、私的な個人(の暴力)によって支配される社会とを比較して法律という目に見えないぼんやりとしたものの正体をつかもうとしている。

筆者は法律を、わたしたちが果ての見えないような巨大な人間共同体を運用するに当たってある程度惰性の高い自然条件のようなものとして考えているといえるのではないか。それを見ていこう。
まず、ふたつの支配についてあらためて考えてみると、私的な個人による支配と公的な法による支配とでは後者のほうがより自由だというのはちょっと無理があるんじゃないだろうか。

どんな支配であれ支配は支配なのであって、法による支配もまたあんまり自由であるようにはみえない。

実際たとえば老子は「大道廃れて仁義あり」という有名なことばでルールやエシックスやモラルを否定している。

この筋の批判はけっこう説得的である。


その通りなのだ。

いくら中立的・公的・平等的な法律を謳っても所詮は人間のつくったものであって限界がある。

法律は「どの法律を選ぶか」ということを市民に委ねることができない。

なぜならもちろん法律がなければ市民もないからだ。

つまり原的に法律は恣意的なものにすぎないし、したがってその公性、中立性というものもまたどこまでもフィクションなのである。


02:まるっとお見通し
さて、法がフィクションにすぎないとしてもできるだけ平等で中立なもののほうがよい。

社会契約説の骨法は原始的な自由(俺のものは俺のものお前のものも俺のもの)を手放してみんなで少しずつ我慢する代わりに私的所有が相互に保証されるということだった。

法一般についても同じ感覚で捉えてよいとおもう。

人間は不自由を我慢しなければいけないときそれが自然のことであれば受け入れることができる。

一所懸命に耕した畑が台風で全滅ということは我慢できても夜の間に酔っ払いに荒らされたとしたら堪忍袋がぶちっといってしまうかもしれない。


この違いはなぜ生じるのだろうか。

それはおそらく自然が誰にとっても他者的なもの、自由にならないものとして認識されているからだ。

本文に法が形式的なものであってそれによって他の人間がどのようにふるまうかということを予測する手立てとして機能するということが書かれているのは構造的に簡潔化すればつまり、「雨が降っているからみんな傘をさすだろうな」と予測できるのとおなじことである。


03:「おまえ、空気だよね」
最後に法と経済の関係について。

もちろんメインテーマとなっている法の自然的性格と経済活動の関係を書けばよいだろう。

経済現象とは抽象化すれば人間が世界の価値を増大させていく運動のことであるといえる。

経済の一番根源的な姿は「人間が自然に働きかけてその内から価値を取り出すこと」である。

法という個人の外部的構築物が経済活動の邪魔にならないとすればそれは必然、自然に擬されたもの、自然に近づいたものなのである。