法とはなんだろうか・その3 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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01:「切れてないっす」

今ここに100匹の羊の群れがあるとする。めえめえ。

今朝の新聞をリビングのテーブルのうえに置いておいたら羊のうちの誰かが食べてしまった。

新聞を読みたかったきみは怒る。

一体誰が食べたんだ!名乗り出ろ!謝れ!責任取れ!弁償しろ!

でも誰も名乗り出ない、虚しいだけだ。めえめえ。


責任を担う主体はどうやったら成立するのか。

その条件のひとつは個が確立されていることにあるだろう。

ぼんやりとした群れにぼんやりと所属していたら誰も「私こそは」と名乗り出ようとはしない。

責任をとる大人とそうではない子供とを分かつものはかんたん、責任をとるかどうかにある。

「責任者出て来い」と怒鳴り散らすのが子供で「大変申し訳ございません」と、ほんとうは誰が悪いのかよくわからないことに関してその面倒ごとを引き受けようと名乗り出るのが大人である。

しかしそれは非連続観とはどうつながるのか。


生物で習う個体の発生から発想をもらってみよう。

連綿と続く環境のなか(宇宙は拡大しつつある)においてある生命体がみずからを個として外界と分かつものはなにか。

生体「膜」である。

膜は不思議だ。膜が成立する直前までは環境の中に「膜っぽいもの」が含まれているだけであるのに、膜が成立したまさにそのとき膜の内側である個と外側である環境とが分かたれる。

膜の位置なんかどこであってもいい。

生命が存在する場所はどこでもいい。

個としての生命とそれ以外の環境とが膜の成立に先立って予め存在するのではなく、膜による恣意的な(てきとうな)分節があってはじめて生命と環境とが現れる。

個というのはそのおのれ自らの出生について責任を取りきることができない構造をもっている。

「べつにお願いして生まれたわけじゃない」のは霊長類にかぎらずミトコンドリアやもっと単純な生命だってそうなのだ。

そして、ちょっと情緒的な説得(偽の、論理的ではない説得)になってしまうけれど、個性をもった主体が責任をとろうとふるまい始めるのは、個の成立という一番初めの無責任というか絶対的な「借り」のようなものを抱えているからではないだろうか。


02:失敗が人間の顔に皺を刻む

これに加えてもうひとつ傍証的なものを挙げてみよう。

群れの羊や阿呆な子供の顔というのは見分けがつかないけれど、責任をとる大人の顔はみなはっきりちがうがこれはなぜかということを説明できる。

原的な無責任、失敗が人間を人間たらしめるというアイディアを開帳したがこれが人間の顔をつくっていくのではないか。

失敗の屈辱や無念や葛藤やなんやらが人間の顔に皺を刻み彫りを深くし老成させていくのではないか。


成功はみな似ているが失敗はまるで異なっている。

高校野球を見てみよう。

甲子園は土煙を上げ汗をぬぐいたったひとつの白球を追い、栄光を求めるもの…ではない!

甲子園の目的は勝利ではない。

予選から考えると約4000校の出場高校のうちほんとうの勝利である優勝をつかむのはたったの1校でありその他の3999校は敗北の苦い味をなめるのである。

苦いは旨いなのだ。