法とはなんだろうか・その2 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

01:所有権ってなに?

所有権とは何か。

「ある物についてそれが自分に所属していることを主張できる権利」?

印象からすればたぶんそんなところだと思うだろう。

でもこの定義だと輪郭がぼやけていてよくわからない。

所有権を考えるには「使用権」とのちがいを考えればよい、らしい。

使用権とはこちらはかんたん、物を使う権利のことである。

所有権が使用権と一致しないということはつまり、所有権は物を使う権利に留まらない要素をもつということだ。

その要素は「処分権」である。


処分権とは物を捨てる権利のことだ。

たとえば、レンタカーを考えてみよう。

レンタカーでは車の使用権を認められるということであって処分権は認められない。もちろん。

「車は東京湾に沈めておきました」といっても通らない。

レンタカーで認められる権利に含まれるのは使用権であって所有権を委譲されるわけではない。


02:無限の神と、「どんぐりの背比べ」な私たち

所有権のなんたるかはわかった。

課題文によれば伝統的な日本の共同体には所有権の観念が欠けていて、現在でもその意識が低いということだった。

だがそれはどうしてなのだろうか。

言い換えれば、どうして西洋諸国では所有権の意識が浸透しているのだろうか。


日本と西洋とを分かつものは一神信仰の宗教の有無にあるだろうと考える。

近代を支える大原則の一つである人間の平等は人間と人間の関係のうちからではなく人間と神の関係のうちから導出されるほかない。

人間同士を比べたとき平等の意識は芽生えない。

…みんな同じ?まさか!

のび太と出来杉くんとでは例えば勉強の点数について決定的な差がある。

100点と0点との間には明らかに100点分の差がある。

差があるということは平等ではない。

だが、逆にこの100点分の差を0に近づけることができれば平等に限りなく近づくということになるだろう。

そしてその働きが神と人との関係にある。

神は無限遠方に位置する。

人間と神との距離に比較すればのび太と出来杉の差は限りなく無化される。

ほとんど無視してもよい。

つまり「無限の距離の向こう側に存在する神」というフィクションを経由しなければ平等は導くことが出来ない。

平等のリアリティは神のリアリティに依存している。

神のリアリティが損なわれれば平等のリアリティもまた損なわれてしまうということだ。


問題はここにある。

例えば「文明の対立」という大きなテーマがあった。手に余るテーマ。

そこでは特に西洋とイスラムとの対立が指摘されていたが、これはキリスト教とイスラム教との対立によるところが大である。

キリスト教圏の人間における神のリアリティとイスラム教圏における神のリアリティとは一致しない。

地域的・時代的宗教感覚差によって近代秩序の構成要素たる平等意識に差異が生じてしまうのでは近代はもはや普遍的であるとはいえない。

キリスト教とイスラム教とでは文化や意識は違えどまだ同じ神(ヤハウェさん)を信じるという点では同じである。

それよりもさらにアジアの猥雑な宗教感覚を考えれば本当に普遍近代のプロジェクトなど可能なのか疑問が湧く。

そういう文脈にあって近代批判としての現代思想が現れてくる。