法とはなんだろうか・その1 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

学びかじった法論をあげてみることにする。

ぼくだっておおくのみなさんと同じくらいずぶの素人なのであって、つまり裏をかえせばあなたもおもったことを書けばよいということだ。

これがみなさんの議論の呼び水になってくれれば、ぼくはとてもうれしい。


01:ヒトの話をよく聞くってどういうことなの…?

「他人の話を聞きなさい」
たぶんみんな耳にするお説教だろう。

このお説教がある種最強だとおもうのは「他人の話ならちゃんと聞いてるよ」という口答えが認められない点にある。

「他人の話を聞きなさい」という説教自体もまた「他人の話」の一種だからだ。

「法とはなにか」をとらえるに当たって、まずは法の大まかな性質を考えてみよう。

「権利の上に眠るもの」という言葉がでてきた。

これはけっこう心に刺さる言葉ではないだろうか(余談だが僕はこの言葉を丸山真男というひとの「日本の思想」という本ではじめて知った。丸山さんは戦後日本における民主主義の王様みたいなひとだ。課題文にもよく取り上げられるからどこかで目にするかもしれない)。

「権利の上に眠るもの」は法の保護に値しないとされる。

法の保護が必要ならば自分から申告せよというのだ。冷たい。

けれどもこれはどうしてなのだろうか。


僕が思うに、法というものが宙に浮いているからではないだろうか。

法は「客観的・中立的・疎遠・他人事・よそよそしいもの」という印象をうける。

近代法による社会秩序維持は義理人情の大岡裁きとはちがう、というわけである。

そうして宙に浮いた法をなんとか地に着けようとすること、支えていこうとする泥臭い人間の努力が法を法たらしめるのではないか。

この考えの背景にあるアイディアは「法は脆い」ということである。

僕たちは法のある社会、法治国家を当たり前のものだと考えている。

けれども、それはちがうのではないか。
法は脆い。

脆い法に対して、僕たち人間はあまりにも弱く、邪悪であり卑劣である。

当たり前の法だって、うっかりすると簡単に損なわれてしまうのではないだろうか。