たぶんいちばんひどいレポート…。
ごめんじゃいじぇん。
要綱に五枚って書いてあったから原稿用紙五枚だろうと思ったんだけどじつはレポート用紙五枚だったらしい。
たかが学部生のレポートであっても、一応学術的な文書ではあるわけで、さすがに「周知の通り」って修辞はまずかった気がする反省。
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「趙では、これほどに入り組んだ、複雑な漢字を理解することが学問であり、これこそが武力を誇る秦に対抗しうるものとして考えられています。一方、一文字に何種類もの字体が存在することを非合理的と考えるのが秦王、のちの始皇帝なのです。さて始皇帝は天下を統一した後、さまざまな施策を実行しますが、その一つに文字の統一がありました。(『字体のはなし―超「漢字論」―』pp007-pp008)」
私が今ここで考えてみたいのは上にいわれるように始皇帝によって統一化、合理化された単一の文字以前の文字である。
前期の書道の授業を通して、いちばん私の印象に残ったことは「手書きの文字は大きさがまちまちである」ということだ。
このことは、中学校までの書道の授業において画一的な文字しか書いてこなかった私にはまったく意外な事実であった。
そうしてたいへん感銘を受けた私は、文字というものは私がこれまでに考えてきたような静的な、単純なものではなく、もっと生き生きと躍動し、柔らかく変形し、人間へと働きかける強い力をもったものだったのではないかと考えた。
以下において、ここではとくに始皇帝がもつような「合理的な文字観」をくつがえすことができないか努力をしてみたい。
まず文字を考えるに先立って言語についてかんたんに触れておく。
周知の通り、ソシュール以後の構造主義言語学における言語観は「言語名称目録観(ノマンクラチュール)」とは一致しない。
「言語名称目録観」とは人間が事物・現象に対して名前を与えることに客観的な世界の秩序や事象が先立つと考える立場である。
ソシュールは「意味があって分節があるのではなく分節があって意味がある」とし、この立場を退けた。
言語による分節は恣意的なものに過ぎないというのである。
それは言語に先立って意味はありえないというテーゼである。
ここで、言語とはどういうものか。
言語は「たんなるコミュニケーションの道具」のような静的・秩序的な御しやすいものではない。
私たちのような言語を用いる主体が言語による分節と秩序化の運動に先立って外的に存在するのではなく、私たちという主体そのものもまた言語によって構築され変成されていくのである。
私たち人間もまた言語による分節、組織化と変成という不断の運動の渦から免れない。
こうした動的な言語観に通ずる文字観をもつ人間を私は見つけた。
白川静先生である。
「『字統』において展開される文字一つ一つについての説解は、形象に基づいて行われ、事物の具体性を明確に理解することができる。一方で、さまざまな儀礼的合意をともなう観念がわかりづらいのは、呪術の持つ性格による。ただ、一神教におけるような一つの霊力によっては、これらの観念を統合することはできないという考えに理解を示す者にとっては、この観念は共感的に生きており、文字として形象された事物への理解が可能となる。『字統』の文字解釈が、新しい視点で漢字に関するイメージを覆したといわれるのはこの共感による。(『入門講座白川静の世界Ⅰ文字』、p149、ll7-ll12)」
白川先生の漢字論は古代中国の人間と人間的世界の周辺に邪悪な力が充満していたという仮説のうえに構築されている。
先生はそうした悪意であるとか不明な力とかを祓い抑えるために、住みうる世界を塑造するために人間はことばを用い、ことばの持つ呪的な機能を定着させ永久化するために文字が作られたとする。
始皇帝が図ったように、莫大な数の人間を束ねて国家を形成するには単一の言語や度量衡といった規格の統一化、秩序化が必要である。
が、そうして上から意匠をまとわされた国家・国民というものは生身の人間存在ではない。
国民というペルソナはあたたかい血の通った人間の顔ではない。
私は現に私たちがそうであるように国家共同体が人間に一定度の自由と平和を与えることの意義を否定しない。
だがそうした共同幻想には人間の実存を疎外することがその成立の契機としてあらかじめ組み込まれていることは想起されてよい。
人間はそれほど清潔で健康で理性的で博愛的な存在ではない。
人間は意識をもつ。
意識を持つ限りは外界とのあいだに越境不可能な断絶をもち摩擦が生じる。
摩擦がある限りは人間の心には澱が溜まる。
澱から目を逸らすことはなんの解決にもならない。
あるいは澱の発生そのものを抑圧しようとしたところでそれが消滅することはない。
水面下に潜伏するだけである。
生身の人間をただしく捉えるには上からの立場からみえる表象だけを受け入れてはならない。
ソシュールや白川先生の発生的な言語・文字観は人間と人間的世界の起源にある混沌に接近する、あるいは「起源」という表象を立てずに絶えざる変遷そのものをまなざす。
そうした力動的な文字という視点こそが、手書きの文字の楽しさに近いのではないかと私は考える。
参考文献
財前謙著(2010)、『字体のはなし―超「漢字論」―』、明治書院
立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所編(2010)、『入門講座白川静の世界Ⅰ文字』、平凡社