今度は基礎購読の発表のレジュメ。
これに書き下ろしの文章を一段落分くらいつけたしてアフターレポートとして提出しようかなって。
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「東歌」は何と読むか。
もちろん「あづまうた」だ。
東歌とはまずは万葉集の巻十四に集められた「東国の歌一般*1」であるとされる。
東歌という名称には、たとえば東国歌のような単なる地理的な位置にもとづく価値中立的な表現よりもさらに踏
み込んだ独特のニュアンスがある。
<あづま>とはなにかを考えることが東歌の理解に資するだろう。
まず、東歌の定義にある「東国の歌」の東国とはどこか。
「古代の東国<あづまの国>とは、東海道は鈴鹿の関以東、東山道は不破の関以東の諸国であったが、東歌で云う東国は、東海道は遠江以東、東山道は信濃以東の諸国であった。(『万葉集東歌防人歌新考』p14、ll4~ll5)」
この遠江(現在の静岡県)、信濃(現在の長野県)あたりを境に、東西で言語・文化がおおきく分れるとされる。
では、言語・文化を異にする東国は朝廷の貴族の目にはどのように映ったか。
「あづまとは、辺鄙、田舎という意味がある故、後進国東国を侮蔑的に呼んだ言葉であるが、他面には半ばの恐れを表していた言葉である。(中略)このあづまの国は新開地であったので、この遠い植民地的な東国に対し、中央の貴族は好奇と興味をもち、一種のあこがれ的な想を寄せていたようだ。(『新考』pp14~pp15)」
貴族達は中央大和政権に明に暗に抵抗しつづける強力な地方豪族の国々が展開する東国を、恐怖=斥力と好奇=引力とが入り混じったアンビバレントなまなざしによって眺めたのである。
隅田川にかかる吾妻橋の名の由来になった吾嬬(あづま)神社は、ヤマトタケルの后である弟橘媛(おとたちばなひめ)を祀っている。
吾嬬神社では<あづま>という語の起源説話が伝えられている。
「抑(そもそも)当社御神木楠は昔時日本武命東夷征伐の御時、相模の國に御進向上の國に到り給はんと、御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て、御船危ふかしりて御后橘姫命、海神の心を知りて、御身を海底に沈め給ひしかば忽、海上おだやかに成りぬれ共、御船を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの嶋、忽然と現到る。御船をば浮洲に着けさせ、嶋にあがらせ給ひて、あ~吾妻戀しと宣ひしに、俄に東風吹来りて橘姫命の御召物、海上に浮び、磯辺にただ寄らせ給ひしかば、尊、大きに喜ばせ給ひ、橘姫命の御召物を則此浮洲に納め、築山をきづき瑞離(しきみずがき)を結び御廟(みたまや)となし此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。(吾嬬神社の掲示より。強調、カッコ内振り仮名は引用者による)」
<あづま>という語は「吾が妻(私の妻)恋し」というヤマトタケルの言葉に由来することがわかる。
ここで<あづま>という語の響きのうちには、それを発したヤマトタケルにとってすでに東国征討の栄光と妻を失った深い悲しみとの互いにするどく食い違う一対の感情が伏流していることが指摘できる。
<あづま>という語の引力と斥力(ここでは征討の栄光と喪失の悲しみ)の二重性は起源説話のうちにも確認できるのではないか。
先に見てきたように、万葉集巻十四に題された「東歌」という名称は価値中立的なものではない。
そこで用いられている<あづま>という言葉は中央大和政権から、それとは異質な東国を眺めたときに入り込んでくるバイアスがかかった表現である。
そこには親疎二重の評価が並存している。
東国に対する恐怖や侮蔑のようなそれを遠ざけたい感情と、しかしまさに相手が異質であるがゆえに近づきたく魅了されている感情である。
万葉集巻十四をよく読むためには、集められた東国の歌に冠せられた「東歌」という名称が含んでいる大和から東国へのアンビバレントな視線を捉えることを免れない。
最後に、万葉集全体において東歌とはなにか、一体どういう機能を果たしているのか、万葉集の一冊に東歌が数えられていることはどういうことなのかということを簡潔に考えてみたい。
「大和への憧憬は、当然のことながら大和の外からはじめていだく念なのである。東国への志向から大和へ回帰する。この循環こそ『万葉集』を生み出し、そこに東歌の巻が存する意義を解く鍵ではなからうか。(『万葉集東歌研究』pp20~pp21)」
まず、万葉集は誰にも明らかなように大和の歌である。
けれども東歌は大和の文化からは異質な東国の歌なのであって、万葉集においていわばもっとも非万葉集的なパートである。
このことは翻って非万葉集的な東歌こそが万葉集を万葉集たらしめる重要な契機であるということだと考える。
どういうことか。
東歌という名称は大和から東国を眺める視線を内在していた。
大和からの視線が、大和とは異質な東国を経由してふたたび自己自身に帰って来ることで大和は自己の対象化をなしうるのである。
東歌は大和の人間の意識を「大和の外」としての東国に連れてゆく。
東国から大和を眺めるときにはじめて大和の歌としての万葉集が現れてくるのではないか。