自然体ってなにかしらん | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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今ここで考えたいのは「自然体とは何か」ということである。

自然体の定義に迫るに際して、まずはそもそもこの問い、つまり「自然体とは何か」という問いはいつどのようにして私たちの前に現れ来たるのかを考えたい。

その機会は二種類に大別できるのではないか。

二つの機会とはすなわち初心者とスランプに陥ったときとである。


初心者において自然体の定義が問題となるのは、日常における自然性と武道における自然性とが不一致であるからである。

初心者が日常的な自然性に従って身体を運用してもそれは武道的には散漫でナンセンスなふるまいとなってしまう。

それまで日常世界に属していた初心者にとって武道的(非日常的)自然性は予め自然に持っているものではなく、意識的・積極的・主体的・作為的に獲得すべきものである。


映画『魔女の宅急便』の作中、主人公である魔女見習いの少女キキがひょんなことからスランプに陥り、箒に乗って空を飛ぶ能力を失うというエピソードが登場する。

その後キキは今までどのようにして飛んでいたのかと問われて「魔女の血」で飛んでいたのだと答える。

スランプに陥った人間は非日常的自然性を改めて対象化・距離化する作為を必要とする。

考えてみれば「自然体」という言葉を発話することは逆説的な事態となるほかない。

なぜなら、真に自然体をとっている人間は自然体とは何かということを対象化し、当の自分のあり方はその自然体なるものに該当するかということを検討するうえで自己自身を対象化する、というような不自然なふるまいは採らないからである。


以上から、「自然体(武道的自然性)」を自然にとることができる人間、つまり自然体を知っている人間はそれを対象化せず、意識もしない。

いわば自分が自然体について知っていることを知らない。

自然体を問題とするのはそれを知らない人間だけである。

従って武道における自然体は、日常からは遠く獲得に努力が必要な特殊な身体運用でありながら、それを対象化・意識化する作為を要してはならない、つまりそれが自然体であることを知らないで「自然」に身体みずからによって運用されるものである。