合気道の授業でレポートを書いたよ。
そんなに厳しく添削されないだろうと踏んで好きなことを書きつけました。
なんかまとめ方というか、話を終らせるのがすごく雑になったような気がします、デゾレー。
体育のレポートで魔女宅をレフェランスにひくのはぼくくらいではあるまいか。
どやー。
あ、大学ではレポートの指導において著作権について徹底的に指導される。
うん。
で、著作権とかあるいは作者への敬意とかを尊重することを指導するということは論理の経済として、レポート作成者が自らの著作物について作者としての自由裁量を行使することをある程度は認めざるをえない。
とゆーわけで勝手にやらせてもらいます。
* * *
私が合気道の授業を受講しようと考えたのは武道に興味を持っていたからである。
今まで武道に触れたことがまったくなく、ぼんやりとした憧れを抱いていた。
けれども憧れというものも無責任である。
その実像を理解せずにむやみに持ち上げたり貶めたりすることは当事者からは迷惑にしかならない。
だから実際に見聞し身体を動かし武道のなんたるかという実像を少しでも考えてみたいと思った。
実際に合気道の初歩に触れ一番印象に残ったことはその身体運用である。
武道の身体運用は独特であり、日常生活の場面には現れてこないものである。
それは私にはしばしば難しく、混乱させられ、最低限でも習得するのに時間がかかった。
ここでは以下に「日常的身体運用といわば武道的身体運用との間には断絶があるがそれはなぜなのか」という疑問に答えてみたい。
先に今まで武道に触れたことがなかったと書いたが、現在私は武道サークルに所属している。
その稽古の中で最も多く指導していただくことは「最短距離を通るように身体を運用せよ」ということである。
それはなぜなのか。
武道とは畢竟するところ人を殺める術でもある。
最短距離をとることはそのほうが美しいからという以前に実用であるからだ。
人と人とが殺しあう「生死のあわい」としての戦場においては「待ったなし」である。
最短距離をとらなければ間に合わないのである。
日常的身体運用と武道的身体運用との間に断絶があるのは、当たり前だがそれらの適用範囲つまり日常と戦場とが断絶しているからである。
日常的身体運用をどれだけ延長しても武道的身体運用は導出不可能である。
したがって武道的身体運用の習得に際しては日常的身体運用から素人考えの想像によって接近をしようとするのではなく、異質で他者的な武道的身体運用をそのままに引き受けることが必要である。
降って湧いてきた無茶振りな離れ業をそのまま再現しようと格闘することが必要なのではないか。
そういう風なことを考えた。