Kくんと歴史性ということについてすこしはなしをした。
ぼくのような卑小な個人においてはどうであるかわからないけれども、英雄的人物の生についていえば、やはり大きな流れのようなものを感ぜずにはいられないような瞬間があることがある。
それは点と点を恣意的に結び合わせているだけであるのかもしれない。
知性ということはそうして点を結び合わせてしまうことを自制すること、踏みとどまることであるかもしれない。
けれども、そうして読み取らないではいられないことが人間の人間性ではないか。
認識的主体ということがおもしろいのは、原初の決定的な遅れにこそある。
認識的主体とは子どものことなのである。
認識とはつまり「それ」はなにを意味するのかという問いをほかに向けることであるからである。
大きな流れがある。
ように思えてならないということがある。
「歴史の舞台(笑)」における役割を終えることがある。
どれほど栄華をきわめた人間であっても、役割を終えると一息に吹き飛ばされるように舞台を逐われてしまう。
そういうとき、自分をそうして舞台にたたせたところのものを信じるまさにそのおなじ理路をとおして、同時にじぶんを逐うその力をも信じるほかない。
それはそのとおりなのであるけれども、主観的には、「それでもやっぱり」もうちょっとやってみたいとおもうのではないか。
そこで必要となるのが、魂をなぐさめる歌であるのではないか。
それがたぶんリリーフピッチャーということなのだとおもう。
行きて還るものとは喪失を獲得するものである。