ニュースのはなし | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

帰りの電車の中でいろいろと面白いことを考えた。

つまり、ぼくなりに、ということだけども。


が、みんな忘れてしまった。


仕方ないからお風呂に入った。


するとひとつ思い出した。

ぼくはサラリーマンとその彼女みたいなカップルの隣にすわっていたのだけれど、彼らがすごく面白かった。

身内ネタじゃなくて、ちゃんと一定の客観性をもったはなしをしていたからだ。

べつにぼくに聞かせるためじゃないんですけどね。

勝手にきいてごめんね。

でもおもしろかったの。


その三人の面白い人たち(←ひとりは私だが)の対話と勝手な相槌がおもしろかったのである。

その場限りにぼくが楽しんでおしまいではすこし惜しいとおもったので、そこで扱われた話題をひとつメモしておくといいんじゃないかな


しかし何言ってんのかわかんないね

きょうは一滴も飲んでないよ。

風邪薬だけ。


あれ、これってなんだっけ?

「~なわけじゃないの。~なだけ」みたいなのって。

どこかで聞いたせりふのような気がする。

わかったひとに缶ジュース一本おごったげる

はやみんボイスで再生されるけれどたぶんつるこではない。

もっと昔。


んー…。


やめよう。

はなしがすすまない、というかはじまっていない。

駄文を書かせたらぼくはなかなか仕事が速いのである。



となりの二人がこれからの新聞社のあり方について話していた。

女の子「NHKが新聞とか出してたら読んでみたいな」

男「うーん…。ニュースにお金払うのってよくわからないんだよな。ニュースとか新聞とかさ。だって今ならネットでいくらでもストレートニュース?…解釈を加えない中立的に伝えられる情報が無料で読めるわけでしょ」

女の子「アナログだから見れないけど…」

男「でもまあ、情報を囲い込むことでお金を取るっていうビジネスモデルは終ったんじゃないかな」

こんな感じ


まあなんでもいいんだけど、ある商品が十分その収益性を保つにはその商品を購入する一定以上の顧客がいればよい。

それは内容如何にかかわりがない。

どんなくだらない商品であっても、売れる限りはビジネスとして成り立つのである。

情報に金を払う人間がいる限りは情報を売って糊口をしのぐことができるだろう。

単純なはなしである。


ただ、ジャーナリズムはちょっと事情が違う。

日本のマス・メディアが自らうたうように、彼らは「社会の公器」であり、特殊な個人の欲望によってその働きが左右されてはならない。

簡単にいうと金もうけのはなしにしちゃいけないってことだな。


ニュースはその社会公共的な機能についてかんがえれば、誰のためにあるのか。

顧客のため、と答えてはいけない。

そのように答えてもよいけれど、そのときはいやしくも「社会の公器」などといった下品な冗談をこぼしてはいけない。

では誰なのか。

市民である。


現在、ニュースには大別して二種あるといえるだろう。

顧客としての大衆のために流される、バラエティとしてのニュース。

そして、その社会を存立させるための担い手としての、換言すれば顔のある責任者としての市民のために流される、ジャーナリズムとしてのニュース。


ジャーナリズムとしてのニュースってちょっとなにいってるかわからない気がするけれど、ジャーナルとしてのニュースじゃ意味が大きくずれるとおもうので、「なにを伝えなにを伝えないかということにすでにして個人のバイアスが入り込んでしまうという構造的限界を対象化していくこと」を意識的に引き受けていく運動としてのジャーナリズム、くらいにいっておこう。

ねむいので日本語があやしいかもしれない。

すみません。


バラエティとしてのニュースは、とにかくインパクトある出来事をつたえてワイプで顔の濃いタレントに百面相してもらってリアルな茶番劇を提供することで目の肥えた視聴者に「キョーカン」してもらって、数とって、なんか稼げばいい。

中立もくそもない。

面白ければよいのである。


むしろ、困難なのはジャーナリズムとしてのニュースである。

サラリーマン氏の見立てとは反対に、ぼくは金を取らないニュースの方がやせ細っていくのではないかと危惧する。

どういうことか。


いま、ニュースを伝えること、それそのものにどれだけの意義があるか。

疑問である。

また大量殺人か。

へえ。

地震。

なるほど。

節電?

それはたしかに目新しいししんどいし、現に熱いし、他人事じゃない!


ニュースはそのまま新しいことである。


そうか。

カメラの遍在。

俺が伝えなけりゃいったい誰が伝えるんだ、みたいなことってほとんどない。

どこでも通行人がケータイでムービーとって動画サイトにアップロードすればあとはコピーされて一瞬にしてそのニュースのニュース性は失われる。

ニュースって伝えられるまさにその瞬間それが意味するところの取り消しを求めるのだ。

構造的に言って、ぼくたちはニュースを伝えることができない。

伝えたまさにその瞬間それはニュースではないからだ。

リスクが顕在しないのと同じ。

リスクは決して顕在しない。

なぜなら、リスクは顕在したまさにその瞬間、リスクではなくなるからだ。


ゼノンの飛ぶ矢のパラドックスに似ている気がする。

もうちょっとかんがえてみよう。