くないとくのうくないふ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

サリュ!

頭の体操代わりに断片的な文章をだだ流しします。


あ、そうか。

学館でひまをもてあますなら、トランプかカタンをもってけばいいのか。

うわあやってることが変わらない。


まだすこし咳がでる。

けほ。

こんどの風邪はしつこいです。


大学の図書館で本を返す。

けっこう返却期限がきびしい。

遅延するとそのぶんのポイントがカウントされていて、溜まると貸し出しが二週間ほど停止になるそうです。

こわいよ。


「街場の中国論」を市の図書館で借りる。

予約していてやっとまわってきた。

つぎの予約の人がいるので延長ができない。

二週間以内に読まなければならないです。

週末の早慶戦でたぶんぶっつぶれるから来週はあんまり読めないだろう。

今週頑張ろう。


フランス語の小テストが来週のあたまにあるそうだ。

まだ内容は簡単なのだけれど、二日酔いの未来のじぶんを過信しないことだ。

「実力以上に思い上がるヤツは自滅する」

…ってグリーンがゆってた。


なにがはいっているかわからない箱の中身をわからないままに考えること。

というか、何がはいっているかととうてはならないことがある。


あ、おもいだした。


ぼくに言わせればこれはたぶん「恋煩い」であるとおもう。

そこにはたしかになにかがあった。

しかし、それはもうここにはない。


「なにかがあった」、「もうここにはない」なら、それは恋煩いではなくてたんに失恋ではないか?

恋煩いが恋煩いであるのは潜在的に恋が成就する可能性が一厘でもあるかぎりにおいてである。

過ぎ去ったものは動かない。

動かないからには不可逆、不可塑、不可能なのであって、それはすでに失恋とされなければならない。

うん、そうなんだよ。

でも、ぼくがこう書いたのは、パラレル・ワールドが念頭にあったんだよ。

パラレルワールドにおいては、「同時」に、あるものが、かつ、ないということがありうる。


ただし、パラレル・ワールド的な発想には難点があって、結局あたらしい存在論のはじまりに過ぎないような気もする。

「明日から本気出す」にならえば、「可能世界では本気出してる」みたいな。


「私をわたしたらしめているとうのもの」うんぬんということをなぜしつこく考えているのかと言うと、たぶんそれが私性と公性の交わるところだと信じるからである。

与件を引き受けるとか、よく生きるとか、ゆるやかな承認、ひらかれた承認へとむけてふるまうとか、そういうことを考え、選び、行動していかなければならない。

もちろん「そんなものどうでもよい、関係ない、知ったこっちゃない」ということは依然あってよい。

「倫理」とか「正義」とか、重いものを視野狭窄的に、独善的に、自分自身にも、他人にも、無反省に押し付ける時代はおわった。

でも、どうじに、ぼくが、あるいはきみも加わってくれるかもしれないけれど、ぼくたちでとりあえずなんとかしていこうということがある。

無根拠に信じていることがある。

成長しなければならない。


徳富蘆花の謀叛論。

「諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」

憲法の授業で教わった。

つまらないことをいえば、すごく励まされた。

この言葉は、時代背景のもとにピースをかちりとはめるとぞっとする。

うちのめされる。

参った。

ちなみにこのあと、「身を殺して魂を殺す能わざる者を恐るるなかれ」という引用につながる。

これは例の勇気の言葉である。

みんなこの言葉に向き合ってるんだ。

これはおそらく還相のモンダイとつながっている。

たぶんぼくの誤解なのだけれど、知を捨ててゆくことが必要だ。

知であり、それまでにおのれの築き上げたものを解体していく仕事がひつようだ。

「おじいさんのランプ」であり、「羊をめぐる冒険」であり、「グレート・ギャツビー」であり、「グスコーブドリの伝記」であるようにおもう。

謀叛を懼るな。