私有という困難 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ってフレーズをぽっとおもいつく。

とくにおもうのが、時間の私有という困難だ。

「きみがくだらないことにきみじしんの時間を浪費することはわたしの知ったことではないが、わたしのじかんを無為に費やすことは許さない」なんて言葉がどれほど虚しいものか!

このひとは決定的な勘違いをしているとぼくはおもう。

スケジュールという概念が前提するのは時間をコントロールしハンドルしマネジメントすべき主体がとうの時間に先立って成立していること、である。

だって「私有時間」が「私有」となるためには有される時間に先立って有すべき私が成立していなければならないから。

「有す」という運動が成立する条件、ということね。

でも「主体が時間に先立つ」という命題は偽である。

なにかしらのものがなにかしらのものとして同定されるということは、だいぶくどく話してきたけれども、時間を条件とする。

現象と認識との関係は船のへさきと船尾の関係に似ている。

認識には光源が必要だ。

へさきが始まらなければ船尾もありえないけれども、一切が一切として現れるのは船尾が過ぎ去って以後のことなのである。

主体と時間は同時である。


「わたしがそのつどの反応について新鮮な驚きを覚える今までにいないタイプのひと」という定型について。

べつにA君である必要がない。

ぼくはたまたまその配役をAくんに投射しているにすぎないのであって、それってみんなそうではありませんか?

人間が時間的存在であるということはすなわちあらゆる瞬間にわたしはそれ以前のわたしを含めるすべての存在にとって他者として現れるということだ。

つまり、ぼくがAくんのうちに見ているのは、ぼくじしんの姿なのである。


「大いなる謎」について。

ぼくは「大いなる謎」は集中しているべきではないかと書いたけれど、あれはまちがいではないかと思えてきた。

うえの議論につづけて、そのつど生々起滅しつつある世界という切り口をとれば大いなる謎というのは一切がそうなんじゃないか。

これは内田先生のはなしでいえば、成熟したもののしるしとは、あらゆるものをみてなんら動じず、しかし同時にあらゆるものをみてどんなささやかなものにも驚くことである、ってことだ。


あたらしいことをはじめたもののうまくいかないひとにたいして僭越ながらアドバイス。

せんえつー。

うまくいかないと気に食わない。

でもね、みんな同じなんだよ。

状況に対して、にんげんは孤独である。

自分とはべつに、他人がうまくいっていたりいかなかったりしている。

あれらはあたかもぼくがやっていることとつながって起こっているかのようにみえるかもしれない。

でも、結局はぜんぜん関係がない。

ひとがうまくいったりいかなかったりすることはわたしがうまくいったりいかなかったりすることと無関係である。

シビアにきこえるかもしれないけれどそういうことがある。

ぼくは変わるだろう。

容赦なく変わるだろう。

けれども、しかしどこかに変われば変わるほど変わらないものがある。

そう信じる。

かわろうと努力する、という事態は、じつはすごく不思議である。

「かわろうと期待するわたし」って誰なんだろうか。

かわってしまってはそうのぞむ私自身がもはや消滅してしまう。

わたしじしんの消滅がけっして納得しきることのできないもの、いや、たとえばやっぱり死にたくないし、ひとのためにじぶんの身をなげうつことだってそりゃあいやだなあと割り切ることのできないことをよくわかってはいるけれども、けれどもたほうでどこか醒めたきもちで、へんに静かに自己自身の消滅をねがいつつ歩をすすめるということがありうる。

おじいさんのランプ。

かわろうと期待するわたしということはありうる。

これはどこかで敗れ去りつつあるにんげんの姿であるとぼくはおもう。

けれども、かつてアルベール・カミュが喝破したように、人間の人間性はその不断の敗北のなかに始まるのである。


と、ちょっとまじになる。

議論をドライブするややてきとーな力が湧いてくる。

わたしを生かすものとしての未知性って議論がありましたね。

あれです。