怒涛の新勧期が終る。
みなさん、大変お世話になりました。
すごく勉強になりました。
生きる力というのは結局三つの要素に集約される。
すなわち、なんでも食べられること、どこでも寝られること、誰とでも仲良くなれることである。
サイゼリヤワインを楽しく(おいしくとはいわない)呑み、戸山公園でぐっすりと眠り、ぱっと飛び込んだサークルで友だちを山ほど作ることの出来るような人間が、よく生きることの出来る人間であるのだとぼくはおもう。
*
新美南吉を読んでみる。
おじいさんのランプという短篇。
「わしのいいたいのはこうさ、日本がすすんで、自分の古いしょうばいがお役に立たなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。いつまでも、きたなく古いしょうばいにかじりついていたり、自分の古いしょうばいがはやっていたむかしの方がよかったといったり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意気地のねえことはけっしてしないということだ」
(新美南吉、「おじいさんのランプ」、『ごんぎつね』、小学館文庫、2005年第2刷、44-45頁)
「私たちがある種の尊厳を感じるのは、ほとんど例外なくまっすぐ、「自分の存在が不要となるために」生きている人である。病苦を根絶して、おのれ自身が不要な存在になる日を夢見ている医者。弟子に持てる技術と知識のすべてを伝えて立ち去る師。子どもが誰にも頼らず生きていけるように自立を支援する親。彼らはひとしくおのれを「消し去る」ためにそこにいる。おのれの足場をわが手で掘り崩しながらそこに立っている存在は、切ないほどにリアルだ。」
(内田樹、『期間限定の思想』、晶文社、2002年初版、108頁)
おー、おなじはなしだ!
やがて立ち去る人。
敗れ去る人。
ひとの敗れ去る、その後姿ほどに人間的本質を雄弁に物語っているものは他にない。
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「失敗を宿命づけられた企て」。
デス・スターのはなしはまさにこれである。
デス・スター破壊計画は、やっぱり「失敗を宿命づけられた企て」なのではないか。
結果的には成功したのだけれど、ほんとうはあそこでおしまいだったんじゃないか。
あ、そうか。
ほんらい失敗すべきものを成功に置き換えるために、オビワンは無駄死にしたのだ。
デス・スター表面の溝に戦闘機が飛び込む。
溝はすこしずつ狭まっていく。
戦闘機の窓から見える両側の壁がすこしずつ近づいてくる。
映画のクライマックスはデス・スターの破壊だ。
デス・スターが破壊されなくては物語はおわらない。
でも、溝は狭まっていく。
破壊作戦の難易度は核心にむけて進めば進むほど上がる。
はじめは複数あった仲間の機体が一機また一機減っていくことでいよいよ困難になっていく。
ここでは相反するふたつの力がたがいに拮抗している。
映画のおわりへと近づこうとするながれと、映画をおわらせまいとする、遠ざける流れである。
デス・スターの破壊は「不可能な夢」である。
でも、成功させないとあらゆる希望の芽は摘み取られてしまう。
オビワン亡き今、最後の希望たるルークみずからがデス・スターの排熱口=デッドエンドへと接近していく。
ルークはどうして排熱口にプロトン魚雷をあてることができたのだろうか。
フォース?
うん。
たぶんデス・スターに乗り込んでいた帝国側の人々は、排熱口をめがけて飛び込んでくる反乱軍の戦闘機をみてあざ笑っていたのではないか。
ばーか、無理だ、万に一つも不可能だよ、と。
だって、少数の戦闘機とデス・スターとではあまりにも非対称的であるからだ。
デス・スターの破壊って、百回やったら百回失敗するようなミッションだとおもうんだ。
ふつうにやっている限りたぶんだめなんじゃないか。
オビワンが死ぬ、ルークがオビワンの声を聞く、フォースを(それがなんであるかはともかくも)信じてスコープをとる、じぶんの目でみて引き金を引く。
そういう手続きが必要だったんじゃないか。
じゃあそれはなぜなんだろう。
そういうことがあるような気はする。
だから映画を観て、すごく納得した。
でも、なんでなのかと聞かれると答えに詰まる。
うーむ。
*
人間の成熟とはおのれのうちに様々な声を聞くことができるようになることである。
ぼくのばあい、はちきれるような幼児の声、好奇心がつよすぎる少年の声、やや微弱だが少女の声、ぐうたらな青年の声、遠い目をしたおっさんの声、能天気なおばちゃんの声、もそもそしたおじいさんおばあさんの声、くらいはあるような気がする。
でもたぶん女子大生の声はあんまり響いていない。
知っていると想定された他者。
うむ、ぼくが女の子に話しかけるのは決して下心からではなくまずもって学術的好奇心のなせるところなのである。
下心もあるけれど、ことの順序は学術的好奇心、ついで下心である。
ゆめゆめ順逆を取り違えてくれるな。