馬鹿げていることを本気でやることについてN先輩に教わる。
馬鹿げていることは馬鹿げている。
なにかをやろうとしている人にたいして、元も子もないことをいえば、それってべつにやらなくてもいいとおもう。
べつにそんなのどうでもいいんじゃないだろうか。
そんなことない?
でもやっぱりどうでもいいじゃない。
怒るだろうか。
あるいは、そのひとがやろうとしていることがそのひとにとって重要なことであることを非常に深く信じているならば、とても怒るだろう。
激情して(あるひとつの極端な例であるような気がするんだけれど)ぼくを殺してくれるかもしれない。
うん、でもどうでもいいのである。
ぼくは殺されるかもしれないが、でも、どうでもいいといえばよい。
死んでもどこかではやはりどうでもいいのである。
どんなにひとびとが強く信じ込んでいることであれ、その裏側にどこまでも回り込むようなバカバカしさがある。
あらゆることはどこまでも馬鹿げていることではないだろうか。
ばーか。
しかし、同時に、どこまでもバカバカしいことのうちには、拭いきれない痕跡が残されているのではないか。
「真面目」である。
真剣さってどこからくるのだろうか。
「胡蝶の夢」が教えるのは、現実世界なるものはどこまでもばかげた夢に過ぎないことであるだろう。
でも、ぼくたちはばかげた夢の中で、本気になる瞬間がある。
それがよいというのではないよ。
よいとは言えない。
よいとは言えないのはそれがあくまでも内部において、これが現実というなまえの唯一的な、代替不能な夢であること、という信じられないものを信じることによってはじめて成立しているからである。
信じてなんになるか。
わからないけれども、ぼくたちはどこかで、ほんきで信じている。
信じざるをえないからだろうか。
うーん、やっぱりね、そうだとおもう。
たとえばなにかを選ぶときに、じぶんでえらんだとおもう。
でも、それってじつはそのように選ばされているのであるかもしれない。
それは同時であるだろう。
あることを選ぶことはどうじにそれを選ばされることである。
おなじことの両側面であるし、それらはどこまでもパラレルである。
でもさ、そうなんだけど、あ、これでよかったような気がするな、ってときがくるのだとおもう。
正直なところをいえば、夜食にどうぞってワセ弁を渡されても、ちょっと困っちゃいます。
まだ胃袋ができていないのであんまり食べられないですごめんなさい。
スターウォーズエピソード4のデス・スター破壊のシーンについてまた話す。
さっきもさらにまた別の話をおもいついたんだけれど忘れちゃった。
すごいシーンだということだとおもいます、ほんとに。