春宵一刻値千金 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

金曜日になってしまった。

Time fliesだね。


とても体力を使う。

体力を使うからおなかが空く。

おなかが空くと近くのお店に入る。

近くのお店はどこも量が多めである。

多めの料理を食べているとだんだん食べられるようになってくる。

体力がつく、とおもう。

厳密には「入る」、「食べる」ではなく「連れて行ってもらう」、「食べさせてもらう」なんですけれども。


そのうちくたびれないで書けるようになってくると思います。


「ひとりでは生きられないのも芸のうち」という言葉が霧が晴れるように「かっ」とわかる。

いや、ほんとにその通りである。

ぼくはすでにひとりで生きていかれない人間になった。

であるからして、ぼくとしてはですね、ぼくが飛び込むまさにその環境はぼくのような人間にも友だちがたくさんできるような場所でなければならない。

そうでなければ生きていかれない。

だからぼくとしてはただ生きるために(よく生きることはただ生きることだ)、こここそはぼくに友だちができる環境であることを前提にふるまう他ないのである。

だからぼくは積極的に(ある程度は、ということだけれど)、人に話しかけようとするのである。


たとえばなしをしてみます。

人間はなにかをしようとするとき予測を立てる。

予測を立てなければどのようにも動けない。

けれども、予測は困難な現実に出会うことでしばしば裏切られる。

捕らぬ狸の皮算用。

ここではたぶん互いに否定しあう一対の、ふたつの「ただしいこと」が現れているのではないかとおもいます。

それは行動の前には必ず先入見が必要であること。

あらゆる行為はそれらを同時に履行することは出来ません。

現在時に先立って、あらゆる選択肢に対して潜在的にひらかれていますが、それがなにかしらの具体的な事象として現れたまさにそのとき、それはそうでしかありえなかったものとしてだけわたしたちには感得されることになります。

ここで、何かを選ぶことはべつの何かを失うことに等しいといえるでしょう。

それがなんであるかということはそれがほかのなんでもないことを示されることによって迂回的に、ついにそれに触れることができないことによって辛うじて触れられるべきものとして、与えられる。

予見があって行為がある。

しかし他方で、予見と現実化された行為とのあいだには可誤的当事者性とでもいうべきマージナルな領域が横たわっています。

予見は必ず、なにかしらの形で裏切られる。

ある事象はべつのなんであってもよかった。

わたしたちはべつようでもありえたかもしれない物語を想わないではいられません。

それを抑圧することではじめて可能となる、いずれかの選択によって同時に抑圧された「ないものの影」はさらにグロテスクな表象をとって回帰する。

予見に行為が先立つ瞬間がありうる。

つまり、ぼくがいいたいのはこういうことです。

やってみなければわからない、でも、やってみるにはわからなければならない。

この矛盾したふたつの要請を同時に履行しようとするには答えはぼくがまさになしつつあるそれ以外にはありえないだろうとおもいます。

身を投ずることで見、見るということで身を投ずる。


新勧とかたのしーよ。

仲間ふえるとうれしいもんだよ。


はるきよさん今夜はいけなくてごめんよ。

おくれたけれど本当におめでと~。