かいふく | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

文章が通っていない。


ねむたいと人間のパフォーマンスが低下する。

インプットはできるけれどもアウトプットが困難になる。

なぜか。

アウトプットには余裕が必要である。

ねむたいと余裕がなくなる。

余裕をもとうとするとねむってしまうからである。

なぜ余裕が必要なのか。

余裕とは遊びである。

遊びはウィキペディアによれば「操作が実際の動作に影響しない範囲」のことで、言い換えればそれがなにかしらのものとして同定される以前のアモルファスな純粋現象として留まっているもの…「揺らぎ」である。

うまく説明が出来ないのだけれど身体の、精神の運用にはある種の「揺らぎ」が必要なのである。


こんな感じで。


もうひとつ、「お酒とかまだあんまり慣れてないです~と媚態を演じ」ってもちろんぼくが演技によって己の実体(?)を覆い隠そうとするのは先生の目からではない。

素人の小細工など意味がない。

そうではなくて、おなじ新入生の目である。

彼らならもしかしたら引っかかるかもね。


たぶん武道における力量の差というものは絶対的な遠さを持っているような気がする。

というかそういうふうに見なすことではじめて上達する道が開かれるのではないかとおもう。


あ、O先輩、きょうはイッテQはおやすみみたいです。


水火についてメモ。


研究論集 | 佐々木合気道研究所

http://sasaki-aiki.com/article1_108.php

01「水火を結んで、火は水を動かし、水は火によって働くという」

02「身近な例で、この火と水を喩えれば、このやる気が「火」で、それを「まあまあ」と言って抑えるのが「水」と言えるだろう」

水火殺方位

http://www.kaiun-navi.com/html/suikasatu.html

03「水火殺の現象 水と火の相克作用から、大怪我をして手足を切断するなどと言う現象が起きます」


01、03。

相克ということは相打ち克つということだ。

互いに乗り越えるということだから循環を意味するんじゃないか。

循環でも立体性を伴う。

運動にはそれを引き起こすエネルギーが必要だ。

エネルギーとはまたウィキペディアによれば「ある系が潜在的に持っている、外部に対して行うことができる仕事量のことである」。

系はシステム、あるまとまり、全体のことである。

全体であるからそれは内と外をもつ。

総じてエネルギーとはあるまとまりの内側と外側との緊張のことであるといえるとおもう。

内と外との通時的相互作用をモデル化したものを弁証法という。

水と火というのはそのつどの内と外のことなんじゃないかな…。


02

「やる気」は「やる気を抑える「まあまあ」と言う声」を動かし、「やる気を抑える「まあまあ」と言う声」は「やる気」によって働く?

意味が通らないので例えとして不適であるようにおもう。
火と水は(それがなんであるかはともかくも)互いが互いを引き起こす原因としてもつパラレルな二元である。


奥山忠男

http://ktotama.gooside.com/fukumeisyo.html

なんのこっちゃわからないけれど、水火で「いき」と読むこと、そして「水火の御伝」では十字と丸と四角が登場している。

丸が水で四角が火なのかな…。

水水火で「つるぎ」と読むんだよっていうのはどこか他のとこでもみたことがあるような気がする。

ほんとはどうかはわからないけれど、水のほうが多いんだなあ。

剣ときくと水というより火の性質を強くもつような気がするのだけれど。


まあ言語化できない微細な身体運用を無理に言語化しようとすると呪文かあるいはちょっと宗教っぽくなっちゃうんですけどね。


やっぱりこういうはなしってぼくけっこう好きみたいです。