花チョー風月 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

花と風月はそろった。

でも鳥が足りないのでカイジを見ようとおもいます。

花咲くにもでてるみたいですけど。

チョー!


目まぐるしくいろいろおきる。

身体的にも精神的にもなまってるのでたいへんです。

刺激がつよいです、ぴりぴり。


健康診断に行かなければなりません。


先生とKのアドバイスの中で結局いちばん大事だったのは何かといえば、たぶんそれは「きみがイニシアティブをとるべきだ」ってことだろう。

はあ、でもそれってぼくでしょうか。

うーん…そうなのかなあ。

ぼくはぼくでけっこうヘンなヤツなんじゃないかと思いますよ。

だってときどき有用性の原理に還元できないような、要は金にならないふるまいを選択するんですからね。

有用性のほかに度量衡をもたない人間にはぼくとおなじようなふるまいを選ぶことはできないでしょう。

つまり、ある種のひとにとって見れば、ぼくのふるまいを有意味に解することができない。

というかそのひとのそうした立場をそれたらしめるのがそこから見ることができない、見えないという限りでみえないということが見えているぼくのような例外的な要素なのでしょう。

ぼくたちはいわば共犯関係にある。

それはきっとお互いにとって結構フユカイなものであるだろうけれども、これってしかたのないことだとおもうんです。


イニシアティブをとるということについて、すでに少しは議論をしています。

代表ということです。

代わりに表に立つこと。

それはどこからその根拠が得られるのか。

その名のために敗れ去ることによって。

ぼくらの人生は勝ち方によってではなく、その敗れ去り方によって最終的な価値を定められるのです。


ふたつめ。

ミクロロジカルな想像力について言及しましたけれど、ぼくたちのようなパラノイアックな、といっていいでしょう、ある読み方であるとか、またあるいは衝動的・蕩尽的ふるまいについて、これを積極的に肯定する言説を構築する必要があるだろうとおもいます。

(例えば合格祈願と称してめっちゃ歩いてみたり上野公園や葛西臨海公園にふらっと行ったり「ノリいとよし」のあれの話)

だってチョー無力なんだもん。

どうも「バーカ」で一蹴されてしまうようですけれど、それはちがうとおもうぜ。

ややデリケートだけれど、それはどこまでホモ・ソーシャルという形容詞でカバーできるのか。

どこからはそれを超え出る可能性をもちうるのか。

見極めていく必要があるだろう。


みっつめ。

ジェンダーについて、ということで、少女マンガ・リテラシーがなぜ必要だと感じるに到ったのか補強。

「化粧し、媚態を演じ、恋の駆け引きに没頭する女性」という多分に性化された(「男性的視線の下に高度に組織化された」とほぼ同義じゃね)「女性の理想像」を超え出るものを求めるからだ。

決定的な再転倒の可能性みたいなものを感じるんだ。

直接には、海月姫がすごくおもしろかったのね。

でもあれは非常に危ういバランスの上に成立しているような気がする。

ファッションは二重的であるとおもう。

それは芸術であるとともに、金になる。

「金になる芸術」という矛盾した様態がファッションなんじゃないか。

その矛盾こそがファッションを駆動する原動力なのではないか。

それをソフト・ランディングさせるためにはなにかまったく別の要素が必要で、それがあるいはミクロロジーなんじゃないか…なんて牽強付会かな。

大連帯がどうしたっていうのはそういう感覚があるからだ。

とはいえ、「化粧し、媚態を演じ、恋の駆け引きに没頭する女性」でもたぶんイチコロなんだけどね。


こんな冷たい雨の夜は…そうだな、ホット・ミルクでも飲むといいかもしれない。