「過度の自粛の自粛」は控えましょうとのアナウンス。
でもこれは筋が悪いとぼくはおもう。
まず、自粛の論理に則っている以上は根源的な批判となりえない。
自粛が退けられることで「自粛の自粛」の立場も共に退けられることになる。
それから「過度の自粛」以前に適度な自粛なるものは存在しないことが見落とされている。
これは以前も指摘したことだ。
これはその背後に「余暇産業/基礎産業?」の別が前提されているけれどその境界を分節する線は自然のうちに自体するものではない
消極的第2グループ
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10830294982.html
「適度な自粛/過度の自粛」という二項を分節する線は実体的に存在するものではないのである。
じゃあどうすればいいのって?
う、うーん。
そうなのだ。
ちょっとうやむやになっていた。
なんて書いたっけかな。
あ、そうだ。
自粛はなんでしなくちゃいけないのかって水準に引き摺り下ろしたのだった。
「言うまでもない、被災者のためだ」
で、言葉尻を捉えたんだった。
被災者って誰でしょう?
うんぬん。
さて、ではそろそろ各論に入ろう。
ぼくがこれまでに獲得できたもの、経験から得られたぼく自身の言葉のなかからいちばん使えそうなものをピックアップすると、つぎのふたつだろうとおもう。
ま、程度はあれまだまだ駄文だろうけれどもしかしそれでも書き続けていくことには一定の効用があるだろうとぼくはおもうのである。
・あなたが知らないことはそれがつまらないものであることを意味しない
・スケジュールの充実は人生の充実とは無関係である
ぼくはたぶんある種の人々と決定的にものさしを異にしているのではあるまいか。
共約不可能性みたいなものを感ずるね。
まあいずれにせよ、ぼくが焦らなくちゃいけない理由は何ひとつないと確信しています。
のんびりいこうぜ、バディ。