ラビ・アキバがいるのならラビ・ナカノとかラビ・セタガヤとかラビ・シモキタザワとかいてもいいんじゃないかとおもう今日この頃。
それはトライアムフと読みます。
■教育学部国語国文学科■国文聴耳頭巾●お勧めブックリスト●
http://www.dept.edu.waseda.ac.jp/kokubun/kikimimi_booklist.htm
あんまりおもしろそうじゃないとおもったよしょうじき。
学期の始まりが延期されたからと言って「長編小説を読んでみては?カラマーゾフや夜明け前なんか」なんてことしかいえないようなひとにはなりたくないよねぜったい。
ぼくはぼくを入学させるような大学には…なんて冗談。
ワンピースストロング・ワーズの解説を内田先生が書いている。
ムムッ…!?(@川平慈英)
読みたいようなそうでもないような。
でも気になる。
今回の解説のために全巻一気読みしたそうである。
もったいない!
遊びで本を読むことと仕事で本を読むことのあいだに差異はあるかということをさっき湯船に浸かりながら考えていた。
はじめはあるだろう。
でもそれは物理的には一時的・過渡的なものであって、やがては解消されるものではないか。
うん、そうだろうとまずはおもう。
山登りのようなものなんだ、とぼくは言う。
こちらから上り始めても、あちらから上り始めても、山は山である。
でも他方で、そこにはそう簡単に解消されない差異があるんじゃないか?
同時代的に享受することができた経験というものは貴重なものなんじゃないか。
うん。
でもでもさらに、「同時代的享受」は幻想であるだろう。
コメモラシオン…だったかな。
「ワンピースが国民皆読の書に登録されて久しい」とかパフォーマティブに言ってみても、うん、でも結構売れてるしなあ。
あれ、日本語になっていない。
なにが言いたいのかって?
気になるってことがいいたいの。
今日、プロレタリアートは「いまさらプロレタリアートなんてアナクローい」という批判者の向こう側に、まさにそうした批判者自身によって抑圧されたもうひとりのその人として、その人の内部に潜在している。
これ結構いい線いってるんじゃないかとおもうんだけど。
フーコーの口吻を模したものだ。
生権力は逆説的に親密さの相貌をとって私たちの前に現れるのである。
プロレタリアートは逆説的にプロレタリアート概念の否定という相貌をとって私たちの前に現れるのである。
みのきけーん