やはり、わだかまりとなっている偽善ということから考えをはじめよう。
偽善に外部はあるだろうか。
言い換えれば、私たちは偽善ではないものとしての、ほんとうの善を為しうるだろうか。
ぼくはほんとうの善を実践することはできないのではないかと考える。
ただし、「ほんとうの善」というものがどこにもないというのではなくて、それは実践の水準にはないだろうと言いたいのである。
ほんとうの善はたしかにある。
人間の思考の中にはほんとうの善というものはあるだろう。
なんとなれば、こうしてぼくたちは漠たるとはいえほんとうの善なるものについて言及し、またそこではその言葉がなにかしらの対象を指示しているように、ぼくたちには考えられるからである。
しかし逆に言えば、それは人間の思考のうちにしかないものではないか。
それを実践に移そうとしたとき、物質的世界のうちに現実化しようと試みる瞬間に掻き消えてしまう幽霊のようなものではないか。
なぜならぼくたちは他のなんでもなく「ほんとうの善」をめぐっているからである。
ほんとうの善とはなんであるだろうか。
それは字義の通り、また以上の議論の経緯から、ほんとうな善であり、偽の善ではあるまい。
偽の善ではない、ということはそれは真の善、ただしい善である。
ただしさには二種類ある。
論理的な真正さと道徳的なよさである。
しかしいずれにせよ、それがそのままに実践に移されることは決してない。
結果的にほんとうの善という観念が矛盾なく保持され続けることはありうるけれどもそれは一時的・過渡的なものであり、ゆくゆくはクラッシュすべきものである。
なぜか。
対象の物質的現実化としての実践を観念的想像から分け隔てるものがその可誤性であると信じるからである。
実践の実践たるゆえんはそれが二重のほんとうさから逸脱的である点にある。
「ほんとうの善の実践」は語義矛盾であるとぼくは考える。
したがって、偽善に外部はない。
私たちの前には偽善しかないのであって、また、偽善だけが辛うじて善である。
さて、偽善を敢取すべきことはわかった。
今、ぼくが改めて問おうとするのは「大学で何をすべきか」という問いである。
この問いはここではさらに「地震のあとでどう生きるべきか」という問いと一つのものとして考えられることになるだろう。
ぼくはさきに、「大学で何をすべきか」と問うには大学は目的をもつという考えに同意することが必要であることを指摘した。
大学デビューと五月病
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10826015524.html
「大学の目的」の位置には平時においては「大学の理念」が充てられる。
だが、地震の後では「大学の理念」なる大文字の観念はむなしい。
現に家族を殺され財産を奪われ故郷を失った人間の前で、どれだけの力を持ちうるか。
ゼロだ。
まず以っては大学の理念なるものは何の力ももち得ない。
では、ここで目的に価値幻想ではなく有用性を代入してはどうか。
これはうまくいかない。
大学という迂遠な機関を基礎付けるには価値幻想が必要である。
有用性による正当化は「象牙の塔/流血の現場」という二項的説明による反駁に屈することになる。
安全圏たる大学で「お勉強」している暇があるなら流血の現場に赴くべきではないのか。
恐らく多くの大学人はこの潜在的な指弾に疚しさを覚え、肩身を狭くして余計な一言を漏らさないよう心がけながら生活していくことだろう。
バカみたいだ。
申し訳ないけれどぼくはそんなの冗談じゃないとおもっている。
では逆に、故郷を逐われ避難生活をしている人間の前でもしゃもしゃ骨付き肉(リッチの記号のつもり)を頬張ってみせるパフォーマンスでもすべきなのか。
これも誤りである。
この両者は一見対立的であるように見える。
一方は被災者をおもんぱかって自制し、他方は腫れ物にさわるように被災者に対することを偽善として退けある種の偽悪的な態度を選択している。
けれどもふたつの立場は水面下において共犯関係にあるとぼくはおもう。
いずれにも共通しているのは、対象たる当の「被災者」なるものの顔が見えない点にある。
地震以後、あらゆる言説は「えらそうなことを抜かしやがって、お前に被災者の気持ちがわかるか」という最強の恫喝の前に立たなければならない。
今ぼくがすべきは、祭り上げられた御簾の向うの被災者なるものの影が実体を持たないことを明かすことである。
それは希少性批判によって達成される。
希少性、すなわち「他の何を以っても代え難いような、そこにしかない価値」について。
それは絶対の価値ではない。
「かけがえのなさ」という性質はただそれそのものに予め内包されているものではない。
それは他のものを以って代替出来ないかという検討を経て事後において迂回的にもたらされる相対的な価値にすぎない。
また、その代え難さが何かしらの価値として、積極的に称揚されるべき性質として、より一般的に承認されるべき要素として見なされようとするときそれはあるひとつの機能として同定されるほかない。
代え難さを他者に承認させようとするとき、それは道具=手段に堕するのである。
したがって希少性は逆説的にやがてそれそのものが失われる相対的優位性としてしか現れない。
「もはや」失われそこにはないものとして「初めて」私たちに想起されるものとして希少性はある。
特にここではそれは彼らによって選ばれなかった、より彼らにとって本来的な選択肢としてのかけがえのない純粋な経験として、ある種の後悔と憧憬とを伴って無限の距離の向かい側に映じられる虚像と別のものではない。
それは不可能な夢である。
普遍的に実体するものではない。
あるいは、しいて言えば、すでに為された出来事におけるそれ以外にできない出来事としての代え難さならば可能である。
ただしその純粋性はたんに過去の出来事の取り返しのつかなさ、不可塑性である。
希少性は過去の不可塑性を未来に向けた可塑的な選択に投影することによって生じる現在の擬似的な永遠性であるといえるだろう。
人間はそうしたダイナミックな時間操作を不断に、無意識裡に行っているのである。
私たちが無限に頭を垂れ続けるべき被災者なるものは実体しない。
怖れずに言うべきである。
みんな同じさ!
ただし、この言葉が観念ではなく現実の被災者の耳に届くまでにはべつに仕事がある。
正しく過去を過去として葬るために、いつまでも過ぎ去ろうとしない過去を解除することである。
なぜいま死者は過ぎ去らないのか。
むつかしい問いである。
しばらく考えてみたけれども、答えは出なかった。
ということはたぶん問いかたがあまりうまくない。
死者が過ぎ去らないのはなにも今回だけではないのではないか。
天災で死んだ人間の遺族は、なぜ死者が、私ではなくその人が死ななくてはならなかったのかという理由の不在に苦しむことがあるという。
たとえば、電柱が倒れてくる。
電柱は隣り合って歩いていたふたりの人間の一方の上に倒れ、他方の上には倒れなかった。
しかし、そこで電柱が倒れてくるのはどちらの頭上でもよかった。
論理の経済として、その人が死ななくていけない理由がないことは同時に私が生き残らなくてはいけない理由がないことを示さないではいない。
なんで彼/彼女は死ななくてはいけなかったのだろう。
私はどうして生き残ってしまったのだろう。
これが現実の被災者にとって、また生き残ってしまった私たちにとって、切実な問いとしてある。
こうした袋小路はどうやったら解除できるのか。
この問いをぼくは地震が到来する「前」に問うている。
そうではなくて、死者の死の未知性に深く思いを致すことが喪を司る存在としての探偵の仕事ではないか。
犯人が必要なのはそいつがいれば事件の真相がわかるからではない。
というのも、現に、まさに犯人に殺されつつあった被害者の心情はぜんぜんわからないからである。
あるいは無念であったかもしれないがあるいは本望であったかもしれない。
それを確言することはもうだれにもできない。
犯人をつかまえて何がおきるのかといえば、なぜこんなやつに被害者はころされなくちゃいけなかったのかという疑問が喚起される。
犯人がみつかると被害者はほんとうは死ななくてもよかったことが見えてくる。
死者をなぐさめるのは、いや、死者を前にするわたしたちがなぐさめられるのは、死者の死の偶有性である。
別様でもあったかもしれない死者の死がわたしたちを救うのである。
「死者は無駄死にさせなければならない」とはこのことではないかと、ぼくは思う。
王弁のアポリア
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10822914066.html
彼/彼女は地震によって殺された。
地震(津波)という主語が必要なのは事態の幻想的主体があれば死の真相がわかるからではない。
というのも、現に、まさに地震に殺されつつあった死者の心情はぜんぜんわからないからである。
あるいは無念であったかもしれないがあるいは本望であったかもしれない。
それを確言することはもうだれにもできない。
地震という主語を仮構することによって何がおきるのかといえば、なぜこんなことで死者はしななくちゃいけなかったのかという疑問が喚起される。
地震という表象をとると死者はほんとうは死ななくてもよかったことが見えてくる。
死者をなぐさめるのは、いや、死者を前にするわたしたちがなぐさめられるのは、死者の死の偶有性である。
別様でもあったかもしれない死者の死がわたしたちを救うのである。
「死者は無駄死にさせなければならない」とはこのことではないかと、ぼくは思う。
彼/彼女が死ななくてはいけない理由などなにひとつない。
私が生き残らなくてはいけない理由などなにひとつない。
最もよき者たちは戻らなかった。
彼らを想えば、ぼくは適さない。
どのようにしてあるべきか。
それはよき者たちに代わって、彼らの不在を補うことによって、と答えられる。
ぼくが彼らの代わりに、彼らの不在を補って、状況に介入するエージェント(代理人=触媒)である。
本来ふさわしくないぼくが彼らの代わりにここにあること、それをぼくは倫理と呼ぶ。
よき日々のあとに
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10785727202.html
死者はいつまでも過ぎ去らない。
彼らの死は別様であってもよかったからである。
彼らの別様な死の潜在的可能性は無限にある。
だから彼らを想うことは終らない。
終らない死者の想起こそが生き残ってしまった人間の務めであり、またその存在の根拠であるのだとしたい。
この過程を経て、はじめて過去を過去のものとする道が開かれる。
死者はやがて過ぎ去る。
どんなに深く死者のことを愛していても、人間は死者の記憶よりもアクチュアルな生活の中で次第に彼らのことを忘れていく。
それは誰にも責めることができないけれども、しかし忘れゆく当人がみずからを責めてしまうことがある。
そうした人々は救われうるだろうか。
ぼくたちは誰しも自分の内に「そんなこと知らないよ」という無責任な声が響く場所をもっている。
これはそれを何とかしてコントロールしようとしてもうまくいかない。
というかその性質からして、それをコントロールしようとするその人自身に対して「そんなこと知らないよ」と言ってその手をすり抜けていってしまうものだ。
これがある限り、人間において経験される観念と物質的現実との齟齬は解消されない。
ここで私性と公性とがすれ違っているからだ。
でもこのことは人間にとってポジティブなものなのではないだろうか。
それは私を私にとっての他者とし、他者にとっての他者とする。
他者を他者にとっての私とし、私にとってのもうひとりの私とする。
ここまできて、みんな同じなんだという言葉が届くんじゃないだろうか。
さらに、死者を残して忘れてしまうことが、「そんなこと知らないよ」という無責任な声が、探されるべきものがなんであるかということを隠す幕になっているのではないか。
何かをさがすことは結局、さがされるべきものはそれではないことをわたしたちに教える。私たちはそれが探されるべきものではないからこそそれを探しているのである。
その弱く誤りやすいこと、探されるべきでないものを探していること。
換言すれば、探しものをするも当の探されているものが明らかでないこと、なにを探しているかというまさにその目的が隠されていること。
それが私たちの生をぎりぎりのところでつなぎとめる。
さて、大学で何をすべきかという問いは次のようにしか答えられないのではないか。
どのようにふるまうべきかわからないままに、適切にふるまうための能力を選択的に開発することである。
つまり、大学で何をすべきかという問いに答えようとするのではなく、しかし、答えられないままにすべきことをすることである。
それはどうしたらわかるのか。
わからない。
どうしたらわかるのかがわからないのではなくて、そもそも大学でなにをすべきかということは誰にもわからないのである。
でも、たぶんそれが訪れたときにはなんとなくわかるとおもう。
本当はわからない。
わからないけれどもまずはわかったような気になることはできる。
わかったような気になって、でもほんとうはわかっていなかったことがわかったときにはわかっているべきことがわかっているだろう。
そのときぼくたちは自分があたかも「それ」に手繰り寄せられたようにまっすぐ歩いてきていたことを知るだろう。
というか、ぼくたちがそのように誤認してしまうものを、ぼくたちは目的と呼び習わしているのである。
よく生きてみよう。