ねむたいのでねむたいなりにかく。
えーと…。
目的の不可知性になんでこだわるのかということをもう少し掘り下げたいこと。
それと、
やりたい仕事をやるほうがより本質的な労働の姿なのか、あるいは本質的には労働というのは人がやりたがらないことをやることであるのか。
労働というのは、やりたいことをやることなのか、やりたくないことをやることなのか。
これ即答できる人そんなにいないと思います。
どうおもう?
ぼくもわかんないんだけどさ。
「やりたいこととやらなければいけないこととできること」というフレームについて考えないといけない。
ぼくは「やりたいこと」の可知性を勘定に入れた瞬間に信用ならんだろうとおもうんだけど、とりあえず目をつぶろう。
働かないといけないから働くのか、働きたいから働くのか。
やりたくない仕事であっても、そのためにやりたいことが可能になるのであれば、それは長期的には「やりたいこと」であるんじゃないか…。
うん。
で、あの、労働が公共性を支えるというとき、そこで暗黙の内に採用されている労働観があって、それは「労働はつねにオーバーアチーブメントである」という内田先生の考えだ。
なんで、って?
うん。
えーっと、そうね。
人間を可能にする条件(本質)として、「最高目的を信じていること」が導出できた。
これはたぶんそうとう正しいと思うよ。
で、そこから最高目的を未決性のうちに留まらせることの正しさにうつって(A)、そこから公共性を支えるものとしてのオーバーアチーブメントたる労働にいたることができる(B)。
AからBはたぶんわかるだろう。
世俗的(脱宗教的)権力による調停のもとに信仰の自由は可能でしょう?
だから。
で、「Aまで」の議論なんだけど。
これがやや微妙で、そもそも現象学という方法をなぜわざわざ採用しなくちゃいけないのか。
それは形而上学と相対主義の双方から距離をとるためだ。
現象学というのはいわば遠ざけの技術なんだ…。
で、ここで新しい話題を導入しないといけないことが見えた。
ちょっとぼくの中でも混乱があるんだけど、「他者の声」と「利得に還元できない私性」の対立だ。
現象学と公共性をつなぐものの間にどこかで「モラル?くそくらえ!」という「文学」のひとつの姿勢が介在している…気がする。
それは可誤性だ。
バタイユの決して回収されない否定性に近づいていると思うんだけど…。
や、ってかあのこのとこは加藤典洋さんの議論なんだけど。
さて、なんで現象学と公共性のあいだに文学がかまれなければいけないのか。
たぶんね、身体のためだとおもう。
幻想の結節点としての可誤的身体。
あーだめだ!!わかんねえ。