存在者は存在に、存在は時間に、時間は愛に求められる。
では愛はどこに求めたらよいのか。
ここで私たちはLOVE2000に辿り着く。
「愛はどこからやってくるのでしょう/自分の胸に問いかけた」
ここで歌われていることは特にふたつ、私は私が知らないことを知っていること、そして、愛がどこからくるかという問いは出口がないということである。
愛とは何か。
ここでは「他者の欲望の欲望としての欲望」としておこう。
ではなぜ愛の根拠についての問いは答えられないのか。
「他者の欲望の欲望としての欲望」は「他者の実在についての信」が前提されているからである。
「他者の実在についての信」は疑ったところで無限に後退するばかりでその本質はつかめない。
信は蓋いに他ならない。
蓋いの中身についての語りは形而上学に到るほかないのである。
ここでは「それ」が「ある」ことと、「ない」ことは共に証明することが出来る。
したがって、「それ」についての言はすべてナンセンスである。
それは解けない問い、ドゥルーズによれば解けない微分方程式である。
私たちに出来るのは、一定の妥当性をもって扱いうるのは、私たちがどのように「それ」を「ある」と信ずるのか、という信憑構造を問うことだけである。
ここに愛神愛隣の論理を噛ませれば、…どうなるんだ?
えーと、あなた自身を愛すること(A)と隣人を愛すること(B)は、AがあってBがあるのでも、BがあってAがあるのでも、ない。
このとき、AとBが同時であるか、あるいはAもBもついに起こらないかのいずれかであるが、そのどちらであるかということを確言することは出来ない。
けれども、意識経験的には、愛はあることが内省される。
「私は私が知らないことを知っている」
これ重要だよなあ。
現象学を、まあ基礎的なことについて、理解できたかをはかる試金石として「現象学は超越論か」という問いを考えたらいいんじゃねえかと思う。
超越論というのはあるものについて、それを可能たらしめる条件、根拠を問うことである。
えーと、めちゃ微妙な気がする。
現象学は本質学であるといわれる。
うん。
本質の探究と根源の探求は一致しないともいわれる。
うん。
問題は超越論は本質の探究か、それとも根源の探求か、ということである。
これが微妙である。
本質とはなにか。
本質とは、それを欠いてはもうそれそのものとは呼べなくなってしまうような決定的な要素のこと。
例えば、ドーナツの本質を考えてみると、リング状であることは本質ではない。
ねじりドーナツが反証として提示される。
例えばドーナツの本質は…、お菓子であることである。
たぶんドーナツを主食とする親族集団は未だかつてなかったと思う。
たぶん。
あるいは揚げ物であることはどうか。
これは微妙である。
蒸しドーナツや焼きドーナツがあれば、本質ではないことになる。
でも揚げることは本質に近いような気がする。
本質はそれを可能たらしめる条件であるから、本質学は超越論である。
ただ、根源学はどうか。
根源とは、「そこから来るところのそれ」である。
そう考えるとそれを可能たらしめる根拠、といえるか。
そうでもないか。
「それ」に時間的に先行するものは、「それ」の不可欠の条件であることを必ずしも意味しない。
たとえば、「パンチラは雨の先触れである」という迷信がここにあっても、パンチラが降雨の不可欠の条件ではないことを私たちは知っている。
したがって、根源学は必ずしも超越論ではない!
現象学は超越論である、と、ちょっとおどおどしながら思うのである。
で、感想としては、今日の哲学はふたつに大別される、とおもう。
哲学の定義による。
哲学がクソの役にも立たないと考える場合、そこでいわれる哲学とは形而上学である。
これはこれでぼくは好きである。
形而上学は先の区別では、根源論ではあっても本質論ではない。
その分を弁えている限りではそれなりに有意義ではないかと思う。
情理を尽くして説得を試みられる、対話の哲学という印象をもつとき、それは現象学である。
灯火の色ではなく、なぜ私は灯火をその色と見るのかと問うようなとき、それは現象学である。
割り込みの話、もうちょい。
「割り込み」が前提する「割り込まれるべき列」は「割り込みはよくない」というルールの下にはじめて可能になるのであって割り込む人もまた「割り込みはよくない」というルールに賛同するはずだ、と書いた。
でも、もう一歩踏み込んで、「私が割り込めないくらいだったら列なんかなくなってしまえ」という呪詛を考える。
それなりに説得的?である。
というかちょっと唸る。
むむむ。
でもぼくとしては解けたとおもう。
つづく。
すみません、打つのしんどいんです。