ここはパリだから、あなたはピーター・スティルマン | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

問題になっているのは「私が割り込めないくらいだったら列なんかなくなってしまえ(A)」という言葉です。

で、ぼくが考えようと思うのは「私が抜け駆けできないくらいだったら社会秩序なんかなくなってしまえ(B)」という言葉。

Bを退けるとAはBの一部、特殊な一例ですから、Aも退けることができると考えます。

「私が抜け駆けできないくらいだったら社会秩序なんかなくなってしまえ」は、第一に「認められない」し、第二に「不可能である」ことを以下に示します。

まず「私が抜け駆けできないくらいだったら社会秩序なんかなくなってしまえ」が認められるためにはそれが何かしらの形で伝えられなくてはなりません。

私たちは知らないものを認めることはできないからです。

伝えるには意味内容を示すもの、言語が必要です。

しかし社会秩序に背を向ける者は言語をとることができません。

たとえば、ここに所与性(あらかじめある、気に食わなくともすでにある)として言語が挙げられる。

言語はつねにわたしの言語ではない。

英語で考え語るアイルランド人はアイルランド語という無垢な母語を失い、与えられた、ときによごれた英語によってしか世界に通じることができない。

では純粋なアイルランド語はわたしの言語であったか。

ノー。

言語は日の光のようなものだ。

気に食わなくともそれしかない。

あるいは気に食わなさもまたそのうちでしか生きることが出来ない。

言語は社会的なものだからです。

だから認められないのです。


第二に不可能です。

「認められないって?認められなくても構わねえよ」

はい、そうかもしれませんね。

で、承認はいらないと言うと、ぼくにとってあなたを説得する動機は失われるわけですが、思考実験として考えてみましょう。

認められなければ「それ」をすることは不可能なのです。

ここではとくに自由について考えましょう。

自由も社会的価値ですから、(相互)承認を否定すると同時に否定されます。

自由という、たったひとつの社会的価値を否定することが不可能であるから、いわんやすべての社会的価値を否定することはぜんぜんできない。

では、「自由を手放す自由」はなぜ不可能であるのか?


自由にはふたつあります。

すなわち積極的自由(じぶんでおもうようにすること)と消極的自由(ほっといてもらえること)です。

「自由(01)を手放す自由(02)」には二度自由という言葉がでてきます。

前者(01)は積極的自由と消極的自由の両方を考えられるかな、と思うけれど、後者(02)はかならず積極的自由です。

だって積極的に手放す自由だからね。

積極的自由について考えてみよう。

積極的自由の特徴は、その運動性にある。

消極的自由はなにもしない、ってこともあるけど、積極的自由はかならず何かをする。

「何もしない」積極的自由も考えられるけれど、あくまで何もしないを「する」自由なのであって、どこまでも運動としてしか現れ得ない。

そして、積極的になにかをする、というとき、そこでは私たちはなにをするかを選んでいる。

選ぶことができるのは有意味なものだけである。

なぜなら、私たちはそのもの(物自体)をただあるものとしてみることができないから。

それは私たちの目に、なにかしらのもの、何かしらの有意味なものとしてしか映らない。

したがって、積極的自由は、有意味な運動についての自由であることがわかる。


つぎに有意味な運動について考える。

まえもちょろっと話しにあがったけど、アリストテレスは運動を二種類に分類している。

すなわち、エネルゲイアとキネーシースの別である。

エネルゲイアとはナンセンスな、無邪気なといっていいだろう、遊びであり、キネーシースは目的を伴う活動である。

ここでの有意味な運動とはキネーシースである。

そして、アリストテレスはさらに、キネーシースのパラドックスを指摘している。

たとえば、駅に向けて歩く、電車に乗るために駅まで行く運動を考えよう。

「駅までいく運動」の「全体」を考えるとおかしなことになる。

今、駅に向いつつある。

しかし、駅に着くまでは、この運動はまだ終っていない。

終っていないということはまだ一部分であるということだ。

けれども、まさに駅に着くとその瞬間、運動はおわってしまう。

つまり、ぼくたちのまえに運動の全体は一度もやってこない。

運動は「まだ」おわらないか、あるいは「すでに」おわってしまっているのであって、いつも「いま」はない。

運動の全体について「ある」というためには、「いま」現にないのだから、「まだ」ないこと、あるいは「かつて」あったことの、過去と未来にだけあるその確かさ、根拠を「いま」に引っ張ってこなければならない。

つまり、意味は時間の経過のうちにしか求めることが出来ないのである。

時間?そりゃもう言った。


これで説得できたのかなあ。

「割り込まれてもいいから割り込みたい」01

「割り込まれたくないから割り込まない」02

「割り込まれてもいいけど割り込まない」03

「割り込まれたくないけど割り込みたい」04

01はやった。

02は、うん。

03は…相互性は否定してるのかな。

ちがうかな。

相互性は支持するけど、やられてもいいですってことかな。

わかんない。

だって割り込まれるまでは02の立場とかわらないわけだから。

見かけ上は。

04は相互性を否定してるからだめだな。

問題は03だな…。


説得力とはなんでしょうか。

ぼくは二つあると思います。

論理的説得力と詭弁術的説得力。

詭弁術的説得力は、論理的説得力以外のものに説得力をおぼえるとしたらそれってこと。

声が大きいこと、はっきりしていること、みぶり、目を見て、うんぬん。

それは特殊地理的・時代的奇習にすぎません。

べつに逆に、ぼんやりちいさくかちこちにめをそらしつつ、話すことに説得力をおぼえてもいいわけだし。

あるいはどこかの社会の文脈において、そういうおかしなことがあってもいい。

現に、日本ではお上品に話すことや朴訥であることが美徳とされたこともあったわけです。

なので、絶対当てはまるものではない。

で、論理的説得力とはなにか。

それは、結局のところトートロジー(同語反復)に帰着されます。

「AはAだ」という文に覚える確からしさ以外のものではないのです。

説得の技法だとかなんとか、そんな人を釣るタイトルのなんやかや、巷にはあふれていますけれど、あんなのみんなダメです。

まあぼくもだいぶ引っかかってるけどね…。


私は他者によって私であり、まだ私ではないものになり、もう私ではない。


遡及の遡は二点しんにゅうなんだと!

辞書ひいてびっくり。


存在の本質論が現象学。

存在の存在論が形而上学。

「があること」がどのよう「であるもの」かを問うのが現象学。

「があること」「があること」を問うのが形而上学。

けれども、「があること」「があること」については語りえない。

なぜなら、それを語るには「ないもの」について語らなければいけないから。

「があること」は「ないこと」との対比によってしか語りえない。

「ないこと」を語るには「時間」に拠るほかない。

あるはないに規定されている限りである。

あるものはただあるようにないものによってあらしめられてある。

つまり、「があること」をめぐる議論はないものについての議論に到る。


約束と誠実さは矛盾する。

約束(契約)は他者の言語である。

誠実さはわたしの誠実さである。

他者の言語は時に耐えない。

おいしい牛乳はいつまでもおいしいか。

差延がある。

2年後のおいしい牛乳はおいしくない。

約束は他者の言語(思想)に、誠実さは私の生活に対応する。

生活と思想は屹立する。

たしかに、思想はその背後に莫大な生活をかけてやっと髪の毛一本ぶんの重さを持つ。

けれども、つきつめていけば、これらはどこかですれ違っている。

両者をつなぐのは…わたしの身体、変れば変るほど変らない、それでいて変るわたしである。

その不確かさ、ちくわ床だろう。


え、割り込みはよくないでしょう、そりゃあ。