あねくどうと | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

今日になっちゃったよ。

でも昨日からみると今日は明日だよ。


正説は正統的教説。

直説は仏教用語に、釈迦から直接説かれた教え。

順説…?

逆説の対義語ってなんでしょう?


人知らずして慍みず、また君子ならずや。

これをぼくは、他人が理解できないことと関わりなくわたしは正しく、あるいはその是非は歴史が明かすだろうと、
燕雀安んぞ、くらい思ってたわけです。

いや、まあそこまでベタに信じてなかったかもしれないけれども、そうなったらいいなあとはおもっていた、だろう。

でも、これはもっとすごいことを言っていて、

今、あなたがとりくんでいることを人にわかってもらえなくても、気にしてはいけませんよ、ということではなくて、そうではなくて、結局「いつまでも」わかってもらえなくても、と、そこまで引き伸ばすとこれはたいへんラディカルなことを語っている。

報いをすべて退けるからである。

報いの一切を退けると私たちはゲヘナへと到る。

意味性への抗いという意味性を引きずってくると、景色は変って見えてくる。

吉本思想という大伽藍の舞台裏も、たぶんのぞくことができる。

孔子はやっぱり切れ味が違いますね、おっかないです。


えー、列の割り込みの話。

以下、ぐずぐずですけど、功利主義的に考えたい。

m人が並ぶ列があります。

ぼくはそのn番目に並んでいます。

いま、ぼくの直前に人が割って入ってきました。

このとき、割り込んだ人が本来並ばなくてはいけなかった分(m+1)を実際に並んだときの状態(疲労感?)を0とすると、その浮いた分をその人の満足度とおきます。

(m-n+1)

よし。

で、割り込まれた人々の不満の総量は、割り込まれたすべての人が一人分余分に並ばなくてはならなくなったわけで、

m+1-(n+1)+1=m-n+1

あれ、あ、一致するのか。

このまま載せるとバカ(数学的センスの欠如)がまた露呈するけど、ま、いいや。

で、m-n+1分、がっかりが増えているわけです。

幸福の総量は相殺されるので変りません。

でも、一人がめちゃめちゃ(m-n+1分)幸福になって、めちゃめちゃ多くの人(m-n+1人)がそれぞれ1ずつ不幸になることはよいことか、ということです。

よいなら、むしろ割り込むべきだということになります。

わかりません。

でも、ぼくは一人が幸福になるより、多くの人がちょっとずつ幸福になったほうがいいような気がする。

しかたない、他の道を通って割り込みを批判しましょう。

みんなが割り込んでいたら並ばれるべき列がそもそも成立しなくなる。

割り込むことによる幸福はその根拠を割り込むべきでないというルールの下に成立する「列」に負っている。

というわけで、割り込むべきでないのに割り込んだときだけ、その満足は発生します。

だから、割り込みはよくない。

というか割り込みをよいとすると割り込みは成立しないので、割り込みをよいとすることは割り込む人をもふくめて、論理的に不可能であることになります。

みんな、割り込むなよ!


あ、で、割り込まれちゃった場合は、ぼくは列を抜けることにしています。

直前に割り込まれた場合は、m-n+1人に小確幸(@村上春樹)を贈ることができます。