人波に追いやられるようにしてやみくもに歩き回り、騒がしさに疲れて死んだ階段を下る。
ガラスの扉をくぐると吹き抜けの廊下に通じている。
あたりに厚く積もった冷気が舞い上がり、ぼくは身を縮こまらせる。
緑の月が出ている。
ぼくは誰で、どこへ向おうとしているのか。
答えは明白だ。
ぼくは誰か、と、どこへ向おうというのか、と、そのように問う者であり、また現に答えられていないように、どこの誰でもなければ向う当てもなかったのである。
ここでどのように考えるべきか。
ぼくは何者かであり、何がしかの用をもつと、そう言うことができる一方で、今見たように、何者でもなく何の用もないと言うこともできる。
あると言えばあるけれども、ないと言えばない、だから、ない。
たしかに、あるかないかわからないものを、ない、と断じることは、非常に劇的である。
けれども他方で、何者でもなく何の用もないにもかかわらず、ぼくは誰でどこへ向おうとしているのか、と現に問うたこともたしかである。
ぼくは、ないと言えばないけれども、あると言えばある、だから、ある、ということを軽んずべきでない。
なぜか、なぜか、と、この覚束なくみじめな、しかし拭い去りがたい感触を、仮構的基点と置くべきだ。
この足場は不確かであるがゆえに、ある確かさを与える。
なぜか。
それは、本当にその足場なるものは確かなのかとより鋭くより厳しく疑えば疑うほど、その疑いの強度によって、浮び続けるエネルギーを賦活される、そうした足場であるからだ。
疑いの鮮やかさが、かえって対象の姿をいよいよ明るく照らしてしまうのである。
こうしてぼくは自己の是非を、進退を決する立脚点を得る。
ここに、己を斬ることも斬らぬことも、可能になる。
いずれにせよ、よく研がれた刃は、鈍く光っている。
ぼくはいかにあるかではなく、ただあることについて、よいのかと問う。
悪いと思う。
ぼくは不安という確かさに安住してはいないか。
いつも思い出すということはいつも忘れていることではないのか。
あることそのものの誤りについて、人はいかに清算しうるのか。
それは恐らく、人を待つことによって。
だがそこでさらに、ぼくが待ち合わせをすっぽかしたとすれば、どうなるか。
ぼくが求むる確かさは、失われる。
ここで再び待ち合わせを設定しようということは正当化されえない。
向うには待ってやる義理がないからである。
待ち合わせを軽んじたのはぼくの方だ。
カードはみな失われたのである。
ぼくにとりついたのは、正にこの、ないものの影である。
待ち合わせの約束ならば、他の人と取り交わせばいいではないか。
なるほど、そこで誰を選ぶかということはたしかにぼくが決めることであるようだ。
実際、ぼくはいくらもそうなしうる。
ときに状況が許さないことはあるが、原理的には、必ずこれを押し留めるような絶対的な外部要因はない。
しかしにもかからわず、ぼくはないものの影を引きずって歩いてきた。
ぼくはひどく眠たかった。
まぶたは鉄のように重く、熱にうなされていた。
しかしみな忘れてしまうのは怖ろしかった。
ぼくは眠られぬ日々を過ごしてきた。
ギャツビーの精神に殉死すべきであると思った。
だが、ぼくは現に、こうしてここにいる。
これを美化しようとは思わない、ただそうあるだけだ。
ぼくは腰を上げる。
きみの不在に出会ったのだ。
きみに代わって、とぼくは思う。
ぼくはチーズ・ワッフルを確信している。
だからこうして、ぼくは問い、答えるのである。