わすれないようにちゃちゃっと。
列の割り込みの話。
チョコレートフォンデュの話。
体をねじって縮こめようとする人のはなし。
休む事も許されず笑う事は止められて
はいつくばってはいつくばって
一体何を探しているのか
ぼくたちは探している。
何かを探しているようだ。
探していない?
いや、探していないことはないだろう。
何も探さないでいることはできない。
人間の欲望は他者の欲望である。
いってみれば、割符みたいなものだ。
このこれはただこれとしてあることができない。
「これってあれだよね」
そういう「確かめ」、よそからもってきた確からしさがないと不安ですわっていられない。
わー、だめだ。
時間切れ。
きょうのつづきはまた明日。
えーと。
探すのをやめたとき
見つかることもよくあるはなしで
踊りましょう
夢の世界へ行ってみたいと思いませんか?
夢の世界ってなんでしょう?
…。
村上に父なるものの影という問題が出てきたのってたしか95年だよね。
父なるものの影。
幼い微熱を下げられないまま神様の影を怖れて
凡人が己の凡才を自覚することは、才人が天才を認めることよりも多くの時間を要する。
うーん、ぼくが苦しんだのはそのためなのだなあ。
若さの克服という問題は、無垢さによる自己肯定を手放すことにその答えが求められる。
そこでは「どんな汚い手でも」、と語られる。
うん。
その汚さとは過誤性である。
間違っていてさえも構わないのである。
それを伝って渡っていくことの出来る一時的「砂州」。
それと連関して、
醜い私は愛されうるかという問いは私が醜いものを愛しうることを示すことによって答えられるほかない。
竹田現象学を学ぶ必要があるようだ。
態度が悪くてすみませんの「態度」とは語り口、tone。
ぼくたちは自分がさがしているものについてよく知っていると思っている。
でもほんとうはよくわからない。
というかよくわからない限りでわたしたちは「それ」を探しているつもりでいる。
「それ」がわかったとおもったまさにそのとき、わたしたちが求めているものはすでに「それ」ではなくなっている…。
その構造を突き放して見て、総体として、人間は目的の奴隷だ、とかいた。
でも総体として、というのはトーンとしてフェアでないかもしれない。
羊をめぐる冒険の「僕」は、何を探しているかじぶんでよくわかっているつもりでいる。
「僕」が探しているのはもちろん、誰がみても明らかなように、「羊」である。
しかし、そのじつ、ほんとうはその明白なる羊なるもののなんたるかを知らなかったことに思い至る。
なぜか。
それは、まさに羊がなんたるか明らかであるが故に。
ぼくたちは暗さに耐えられない一方で、明らかさにも耐えられない。