探してる人しか「ないもの」はわからないよねトルコ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ユーラシアってヨーロッパアジアがつづまったものだってこないだ気づいたんだよね。

エイジアカップでやっときづいた。


なんか脳がヴァークハツしそう。

いや、ここで脳ってワーディングはなんかちょっとやらしいよね。

「頭が爆発しそう」のほうが素直でよい。

ちがう、べつにそんなことどうでもいいじゃないの。

つまりね、ん、えーと、じゃあ会話をしましょう。

会話をしましょう、っていいね。

いいね。

去年ってなんてよむっけ。

わかんない。

うん。

まあね。

まあね。

え?

うんわかった。

まあうん、それでいいよね。

なにを?

うん。

あれ、わかんなかった。

うん。

これ実際の相槌だけど、相槌だけだと何の話かわからない。

しばしば。

たとえば電話で話している人の会話を傍で聞いていて、なんのことかわからないことがある。

あ、ああ!うんうん、ええ。あ、ええ。うん。そうですよね。

いや、ええ。はい。えー…はい。

相槌は「語り口」という視点を顕在させるような気がする。

え、あれ、なんかさ、あれ、打つやる気がなくなってきた。

需要ねえだろ。

いや、そうかもしれないけど、たぶんこの問いの立て方はおかしいとおもう。

うん。

ん?

えーと。


たとえば、新しくまったくまっさらな状態からブログをはじめることを考える。

つまり、まっさらというのは、ソーシャルネットワークサービス(ミクシィとかフェイスブックとか)が現実の人間関係を可視化する機能をもつ、と指摘されるところの、現実の人間関係のうつしとしてのヴァーチャルな(ブログ)共同性としてではなく、ということ。

このブログもまた、現実の人間関係に立脚して開始されている。

そうではなくて、まったくゼロから、名を上げることを考える。

そうするとまだ需要の無いものしか書くことはできない。

というのも、だれもわたしのことを知らないから。

だから需要無い「から」書いてもしかたがないというのは、論理の経済として、純粋に匿名的な文章というのはすべて書かれる必要も、また権利もないという結論に至る。

それはたぶんちがう。

ただし、完全なゼロからはじめること、というのはあくまで仮想の範囲に留まる。

実際には完全な無垢性はありえない。

たとえば、ここに所与性(あらかじめある、気に食わなくともすでにある)として言語が挙げられる。

言語はつねにわたしの言語ではない。

英語で考え語るアイルランド人はアイルランド語という無垢な母語を失い、与えられた、ときによごれた英語によってしか世界に通じることができない。

では純粋なアイルランド語はわたしの言語であったか。

ノー。

言語は日の光のようなものだ。

気に食わなくともそれしかない。

あるいは気に食わなさもまたそのうちでしか生きることが出来ない。


でも、誰もぼくをしらず、ぼくのほうでも誰をも知らないところで「孤軍奮闘」することにはなんの積極的意味も見出せないか、ときかれたら、ちょっとためらう。

ぼくはなにかがあってほしいなあ、と、考えなしにおもう。

でもないかもしれない。

おいおい考えてみよう。


名を上げることはいいことか。

ちがうとおもうな。

ぼくはむしろほとんどただわるいことでさえありうるとおもう。

そこまで引き込む力がないので、とりあえずよさわるさ相呑んでいる、という。

相呑んでいるっていうかな…。

併含している?

うん。よいわるい、りょうほうある。

なぜか。

…なんで?

名が上がるというのは有名ってことだ。

うん。

まあベタには、賞賛も非難も、数が増える。

分母が増えると分子も増える。

うん。

ほかに?

うーん、ま、いいじゃない。

ははは。冷や汗冷や汗。

立身出世とかクソ喰らえと思ってるね、ぼくは。

なぜ?

なんでだろう。

べつに立身出世それそのものはとくにわるいものでもない。

とすると奴隷道徳か。

妬み嫉み怨み嗟き。

まあそれもあるとはおもう。

いや、ある。

でもたぶん有用性の文脈だな。

何をもって立身とするかということに反省的であるべきだろう。

まあね。

何をもって立身かということは誰が決めるのか。

市場?

人と人との関係が物と物との関係として現れ、そして一切が金に服従しているかのようにふるまうこと。

物象化と物神化。

なぜ拝金がわるい?

なにも説明していないからだ。

金の力はジョーカーズ・ワイルドである。

つまり、それはなにかしらの力、それ以外の一組のトランプ全体の関係性における力の「再現」なのだ。


拝金はカントの積極的自由だな。

ちがうかな。

ま、金はジョーカーだとおもうとはっきりすることがある。

ジョーカーは強いけれども、どこかで不浄であり、最後まで持っていると破滅することが多い。

これは貨幣にも通ずる。

貨幣はさいきんの若い人はあまり知らないかもしれないけれど、不浄のものとされていたし(内田先生が話していたのの口真似)、金も最後まで持っていた人が負けだ。

たとえば、「あなたたちただの紙切れじゃないの!」といって、国家財政が破綻すると本当に紙切れになるし、(いちおう、漫画「ワンピース」の)ゼフは「宝の持ち腐れ」を地でいった。

あとは、逆に貨幣からジョーカー的なものの力を説明する要素として「無縁」がある。

無理かな。いや、無理やり輸入しよう。

「無縁」という言葉はたとえば、いまは島田裕己さんが「無縁社会」がどうしたとか書いてたし、うん、あれも読みたいね。

やっぱり網野先生の史学の非常に重要な鍵になってくる。

ぼくから見ると、ジョーカーにまつわる印象から「無縁」概念にとことこ歩いていったほうがむしろ近い。

サブジェクティブにラショナルなのである。


「列への割り込みの話」とあともうひとつだけあったな。

あー、「忘れるな、安住するな」という命令が、むしろ私を生かすということ。

これ大事な逆説だ。

「忘れるな、安住するな」ってあんまりフレンドリーな言葉ではない。

でも、かえって、これがここで私の生を可能にする。

というか死からわたしをむしろ遠ざける。

死は忘却であり安住だからだ。


ニヒルでクールでキュートでラブリーなひとになりましょう。