「ん」は揚げワンタンの「ん」 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

もんだい、かんだい、かんさい、かんさん、かんとん、かんとく、かいとく、かいとう。


ダブレットってレプリケーションだよね。

そのつど微細な差異を書き加えつつ、これをある程度長いスパンをとって見るとぐーっとずれていっている。

でも他方で文字数については「変れば変るほど変らない」。


変れば変るほど変らないもの=構造ってやっぱり枠組みだ。

それを目がけて状況(意味的布置)が編まれる結節点であるということは、言い換えればそれが状況をつくるのであって、さらに状況を変えるといってもよい、とおもう。

そう考えると構造=意味はまた触媒でもある。


ニヒリズムの克服について。

まずニヒリズムの定義から、これは単に否を言うこと。

俗に考えはじめると「根性が腐ってる」とか「人をバカにしている」とか「斜に構えていてやだちょっとかっこいい」といった意味や、あるいはその延長上にあるんだろうというドクサ、思いなし、先入見が道を阻む。

ちがうよん。

「世界はもっと住みよくなってよい、気分よく明るくなってよい」

これは典型的なニヒリズムだ。

現状=あらわれの否定に他ならないんだからね。

で、「ニヒリズムの「克服」」もまたニヒリズムの一種であることはたしかである。

ここをずばっと書いてあるものが少ないので(というかまだひとつも知らない)、遠回りすることになった。

繰り返そう、ニヒリズムの克服もまたニヒリズムである。

なんだけど、「メタ・ニヒリズム(ニヒリズムなんか越えたるで~ほんまに)というニヒリズム(考えてみるとメタ性はすべてニヒルである)」が後期ニーチェにおいてちやほやされているのは、一応理がある。

病識、自覚があるからまだ自由であろうということだ。

「疲れすぎて眠られぬ夜のために」というのは「ほら、わかるでしょ」って目配せなんだよね。

ぼくは慰められた。

譫妄を恐れて眠られない!


ぼくはここまでまったくの独学だったが(わりと、いやかなり嘘だけど)、ぼくのぶつぶついっていることは先賢の議論に照らしてそれなりにつじつまがあっているように思われる。

なるほど、たしかに「整合性はフェイクにすぎない」し、はたしてそこにどれほどの価値があるのか疑わしい。

でもそれをさみしさにぷるぷる震える尾羽打ち枯らしたみじめな人間に言ってなんになる?

それなりの対価を払わなければならなかったが、ぼくのオデュッセイアはすばらしい買い物であったことを確信している。

知のグッドネスは職業知識人連の権力機構の肥大化によってではなく学ぶことそれそのものがもたらす愉悦によって示される。

それはぼくに明らかである。


すいません、あつくなった。

「リテラシーというものはまず自分自身が差し出すものの位置づけについて適用されなければならない」とは内田先生の言葉ですが、それが念頭にあるのです。

ぼくはときにひどく傲岸不遜になったり、あるいはぷるぷる震えたりする。

「孤独は意味によって贖われる」

その通りですが、さらに、ぼくは普遍性への飢えをも抱え込んでいるのです。

ぼくは、目的からの自由を求めました。

恐ろしいことです。

しかし資本的運動の効果としての時代のディスレクシアを前にこれはそれなりに理のある振るまいであると思います。

「いま、いかにして物語は可能か?」

このラディカルな問いに向き合っている人間はそう多くはないでしょう。

だいたいみんな目的の盲目的奴隷の立場に甘んじているわけだし。

権利の上に眠るもの!

でもぼくは決してめげない。

ぼくは待っているし、また待たれている。

これを故なき信として引き受ける。


資本的運動の効果としての時代のディスレクシア。

資本ってなんでもできるけどなにもしないでその状態を引き伸ばすこと。

切り札は切らないから切り札なのだ。

なんでもできることはカントの積極的自由。

この何があっても不思議はないという事実、この事実の力こそが、物語を語ることを難しくしているのだと思う。なぜなら、何があっても不思議はないとき、そのときこそがまさに、言葉が失われはじめる瞬間にほかならないからだ。

なにがあってもおかしくはないということがディスレクシアをもたらす。

より高次の目的を求めることがかえって目的を困難にしてしまう。


わかりそうなのでもういちど考えてみる。

「つまり、それは消滅することによって社会システムの動態を規定する媒体であり、最終的にはシステムの内側にも外側にもその存在の痕跡を留めない」

前者はそれをめぐって一切が動くところのそれ。

マクガフィンを「否定する身振り」としてダイナミックに捉えればたぶんこうなる。

問題は後者だが…。

「変れば変るほど変らないもの」はシステムの内側の観察でも外側の観察でもなく、通時的な視点によってもたらされる。

明らかなものが明らかであるが故に隠しているもの(なにも隠してないんだけどそう信じたい)、根拠は超越論的にしか与えられないんだよってことかな?


ぼくの好奇心をゆさぶるのは知らないものではなくわからないものです。

「あなたはそれを知りうる」けれども、わかるかどうかについては時間によってしかわからない。

それが怖くもあり、面白くもある。


薄く切ったオレンジをアイスティーに浮かべて…。


存在者は存在に、存在は時間に求められる、では時間は?

アリストテレスは神に、ハイデガーは現れのうちに、と答えたが(たぶん)、ぼくは意見を異にする。

現れでも特に、愛であるとおもう。

「時よ止まれ!お前は美しい」

このときファウストにおいてはじめて「止まらない時」は否定的に立ち現れる!

そして、かつ、「然り」だろう。

この運動は「未来における過去(未来・未来=遠い未来における、未来・過去=近い未来)」。

で、対してもうひとつの時間経験としてはもちろん「プティット・マドレーヌ」だろう(もちろんはもちろんあれもスノブをめぐっている)。

これは「未来に向けて語りだされる過去(人間は前未来形で過去を回想する)」と捉えていいとおもう。

現にプルーストも生き生きと過去について語っているんだし。

ただこれをどう位置づけるかがちょっとむつかしい。

「過去における未来」?


三つ目。「回帰する時間」意識はこれは実は時間意識ではない。

現在のうちに永遠を見ることは時間の否定であるだろう。

ただ、「四季」がむつかしいんだよなあ。

「また一年がめぐった」という感覚は「また」であるとともに「はじめて」である。

あ、すると永劫回帰もあんまり永劫ではない。

回帰のたびに「また」という感覚があるならばそのつどちがう。

関係ないけど未来日記のつづきがきになるよう。

全然関係ないけど、ぜんぜん。


あ、時は愛に求められるというのは村上春樹作品内世界でも通じる「常識」に類する。

止まった時は愛によってしか解凍できない(うっとり/鼻につく比喩だ)。

ワタナベくんも緑ちゃんがいなけりゃくたばってたな。

そのほうがよかったとおもうけど。


そんなもんかな。

なんかまじいきいきしてるきょうこのごろ。

がんばりまっす(束)!