夕方、日テレ系ドラマ『美咲ナンバーワン!!』の再放送をやっていて、チラッと見る。
男子生徒「あいつバスケのスポーツ推薦で入ったんだけど怪我で…」
ん…聞いたことがある、と、よく考えるとありがちだった。
物語というのはAと非Aを分節して(というか分節することでAと非Aが立ち現れてきて)、それからAまたは非Aを遠ざける。
その隔たりが回復されようとするその運動の記述のことだ。
本来的なもの(ここでは推薦されるくらいバスケに秀でている状態)からの逸脱(怪我)がその隔たり。
貴種流離譚って画数多いけどべつに特殊な説話原型というわけでもないと思います。
そうするとシンデレラストーリーはそれを逆向きに適用したのかな。
本来性にマイナス、逸脱にプラス。
マリオの話。
マリオシリーズにもいろいろあるけど、一応本編というか主流がある、とおもう。
で、マリオの本質を考えてみる。
『マリオブラザーズ』はこれは敵を倒すこと、殲滅すること。
悪いもの、卑しいもの、マイナスなものを斥けること。
ケガレとハラヒ・ミソギで説明できそうだね。
実は敵を倒すという要素、ハラヒ的遊戯は結構広くある。
格闘ゲームやシューティングゲームもこれで説明できると思う。
『スーパーマリオブラザーズ』、こちらはハラヒに加えてもうひとつ移動することがある。
確かな足場から、不確かな足場を経て確かな足場へ。
不確かな足場の本質を原理的にとりだすと(本質観取、一性(ヘン)を求めること)、これはたぶん「ちくわ床」だとおもう。
「ちくわ床」というのはマリオ64の天空ステージに出てきた宙に浮ぶ足場なんだけど(たぶん公式名称のような)、乗ってしばらくすると底が抜けて?落っこちる。
それからさらに、確かな足場→不確かな足場、の、確かな足場もまた実は不確かな足場であると思う。
だって確かなら移動する必要ないじゃん。
え、ピーチ姫?
あれはね、マクガフィンなの。
べつになんでもよかったんだね。
栗原さんちのおすそわけプリンでもいいし、たまごっち限定色でもいいわけ。
それをめぐって一切が動くところの「それ」。
というわけで『スーパーマリオブラザーズ』はハラヒとちくわ床に帰着される。
「ちくわ床」の有効性は強制スクロールを基礎付けることが出来る点に求められる。
床抜けるから移らざるを得ないわけで。
テニスはラリーを継続することが目的なんじゃないかな。
相手を倒すかどうかということは…うーんどうなんだろう。
二の次?
そんなこともないよね。
目が覚めるようなスーパースマッシュが決まったらかっこういいものね。
代わりに考えてくれ。
代わりに考えてくれといえばやはりレオタードと網タイツを誰か考えてくれ。
ハイヒールとカフス、ボウタイとウサ耳ウサ尻尾はぼくが考える。
全部あわせて初めてバニースーツのなんたるかがわかるのである。
レオタードと網タイツはあんまり興味がない。
競泳水着と白黒タイツなら任せなさい。
ところで、エスカイヤクラブってまだあるのね。
あれ絶対過去どっかでフェミニズム運動と一悶着あったと思うんだけどいいのか?
よくないけどまあいいといえばいいのか。
セーラー服着せたり、遠くは着物着せるのと量的差異しかない…。
ダブレットおもしろいよ。
パズルなんだけど実際に見たほうがはやい。
たとえば、「おちゃ」を「あつい」にする。
おちゃ、おちば、まちば、まつば、まつい、あつい。
もう一つ考えた。
「たまご」を「ひよこ」にする。
たまご、ひまご、ひまし、ひよし、ひよこ。
ぜひ問題を出してください。
あ、じゃあ「もんだい」を「かいとう」に。
彼が何者であるかということは彼が何を為したかによって事後において回顧的に決定される。
隠れていたけれどもうひとつこれに対応するものがある。
彼が何を為しうるかということは彼が何者であるかということによって事前において先駆的に決定される。
ぼくやきみはバニーガールになることができない。
いや、あるいはきみはなれるけどぼくはなれない。
「我々という存在を規定するのは我々がもつ可能性ではなく我々がもつ不可能性である」
もうひとつ、先の記事の最初の部分をつぎのテーゼにまとめておこう。
「人間は目的の奴隷である」
「たてよみ」ってちゃんと言うとアクロスティックっていうのね。
知らなかったです。
探しものはなんですか見つけにくいものですか…
それよりぼくと踊りませんか
探すことは目的への運動であるわけで、これをキネーシースという。
対して踊ることのようなそれそのものを目的とする、自己目的的戯れをエネルゲイアと呼ぶ。
ここまではべつにわかる。
うん、へえ、そう。
じゃ、「かげふみ」はどうなんだろう。
かげを求めて、追いかけていく、これは目がける運動であるように見える。
しかし総体としてはこれはナンセンスだ。
キネーシース「にして」エネルゲイアではないのか。
みなさんちょっとこれすごいこと言ってますよ。
学校じゃ習えませんよ。
だってぼくがいま書いたんだから。
それよりぼくと踊りませんか…。
真美のんふっふ~はやはりですね、これはたいへん破壊力が高いです。
丸山真男さんによれば、福沢諭吉さん術語においては「プロクルステスの寝台」は「惑溺」と呼ばれるそうです。
管見の及ぶ限りこれを指摘している人はいないので、混乱した人はこう考えると新しい誤認が得られまーす。
アンラーン(学びほぐし、生活的裏打ち)をつづける。
弁証法というのは飼いならしなんだとぼくがいうとき、もちのろん、ポケモンが念頭にあります。
そりゃあそうでしょう。
ポケモンはさすがに「当然の教養」ですから未プレイの人はもうどれでもいいので遊びなさい。
殿堂入りまでなら半日もかからないっしょ。
カントの積極的自由って言うのは、ポケモンでいってみれば最強パーティは空のマスターボール6つなんだ、みたいなことです。
内容についてはこれは決定不能だけど、その形式であり、決定しうるということ、選びうるということについてはこれは議論の余地ない正しさがある、はずだという信念の構造を問題とするわけです。
モンスターボールって胚子のメタファーだよね。
ES細胞とかiPS細胞ってあるじゃん。
ぜんぜんわかんないんだけどなんかサイキョーの細胞なんでしょ。
オールマイティーさということが最強なんだということ。
トランプカードのジョーカーはなぜ強いのかというとオールマイティーであるからだ。
その強さの根拠を他のカード全体に負っている。
もちろん「あなたたちただのトランプじゃないの」というとみんな醒めるのである。
もうひとつポケモンについて。
野生のポケモンはほんとうは技をひとつも覚えていない!
野生のピカチュウが使うことができるのは「わけのわからない未分節的電撃」だけだ。
モンスターボールに入り、名をつけられ、ポケモンあずかりサービスという位階に服従することによってはじめて彼は「わざ」を覚える。
「わけのわからない未分節的電撃」は「でんきショック」であり「10まんボルト」であり「でんげきは」であり「かみなり」であり「でんじは」となるのである。
「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」とはこのことである。
というわけで真にポケモンの解放を唱えるならまずもってシルフカンパニーとマサキをどうにかしないと。
そのてん、ロケット団のほうがよっぽどラディカルだったと思うけどなあ。
あ、ゲームが話題にあがったので「最近の若者はなんでもかんでもリセットできると思い込んでるけど人生そんな甘いと思ったら大間違いだよ!バカ!」式説教を解体しておこう。
これに対して「誰が実人生をリセットできると思い込むものか」的反論はマジセンスがない。
ちがいます。
実人生はリセットできるかもしれないのである。
それは誰にもわからない。
そしてだからどちらかに傾いてはいけないのだ。
ゲーム脳はこれはたいへん素朴な世界認識でほほえましいと思います。
星型の型に当てたら星型に変形されるのでしょうか?わーい。
野生爆弾のおもしろさにやっと気づく。
あれはあぶない。
あぶないねえ。
あぶないよ。
あれ、分裂だっけ、衝撃だっけ?
いいかげんハルヒ的価値圏から出たほうがいいような気もします。
それとももう失効しているのかしら。
書きなぐってすっきりする。
ふへえ。